〈対談〉バーチャルシティのデザイン  伽藍型まちづくりからバザール型まちづく りへ インターネットの普及は、まちづくりにおいてもさまざまな面で影響を与えていま す。バーチャル(仮想)空間、シミュレーション、ネットワークといったキーワード を手掛かりに、情報を媒介した都市形態の未来を探ります。 山形浩生(大手シンクタンク勤務)+五十嵐太郎(建築史家/芝浦工業大学常勤講師) ■蔓延する雰囲気としての都市計画批判 五十嵐■今、都市の話題というと「首都機能移転」と「愛知万博」のプロジェクトが あります。御存知のように、この二つのプロジェクトには華々しい印象はありませ ん。それをとりまく雰囲気は非常に沈んでいて、その印象は当の建築業界でも同じで す。  『建築雑誌』という100年以上続いている学会の機関誌があります。その雑誌の バックナンバーを見ると、国会議事堂の建設の時などは、ものすごい大騒ぎをしてい る。それこそ国家の将来にかかわる建築様式をいかにすべきかというテーマで座談会 をしたりしています。しかし、現在の建築家で首都機能移転の是非に関心を示してい る人は少ない。もちろん国会議事堂は、近代国家の肖像を形成しようとした戦前に構 想されたわけですから、時代状況はまったく違います。しかし、建築が国家や首都の 成り立ちと深くかかわり合っていることに変わりはないはずです。こうしたことを踏 まえて考えてみると、首都機能移転に関する建築界の無関心は非常に興味深い。しか も愛知万博に関しては、無関心というより、否定的ですらある。市民サイドやメディ アも、その二つの事態に対して非常に批判的です。たとえば石原慎太郎都知事は、首 都機能移転に対しておおっぴらな批判をしているし、愛知万博に対しては、やること 自体が悪だというコンセンサスができつつある。 山形■確かに、ちょっと前までは都市計画には見せ物的なところがあって、派手なこ とをすればみんなが喜ぶというところがあったと思います。でも今は違いますね。と にかく大きな計画は批判しようという傾向がある。その一方、身近な住環境を見直そ うといったコミュニティレベルで、ポピュリズム(大衆主義)が強くなっているかと いうと、どうもそうでもないような気がします。 五十嵐■とにかく潰しちゃえというパワーだけは強い。反面ポジティブに何かつくろ う、何かやろうという動きはあまり出ていないというのが現状ですね。メディアの影 響も大きいと思います。裏で汚いやり方を使いつつ無理やり企画を通したビッグプロ ジェクトという物語だけを流通させてしまう。ポール・ヴィリリオがネット時代は条 件反射的民主主義が強くなると言ってましたが、そうした報道に対し、市民はまさに 条件反射的に潰せ、潰せ、ということになる。本当は、そうしたビッグプロジェクト のメリット/ デメリットの情報を開示し、きちっと議論することがメディアの役割 だと思うんですが。 山形■目につきやすい巨大なプランは批判されますが、目につかないものは、それが どんなにひどいものであっても案外カンタンに通ってしまうということもあります。 ポピュラリズムの弊害が出ているなという気がします。今、五十嵐さんは都市計画な どに対する建築業界の盛り上がりのなさをおっしゃったけれど、やる側の力が落ちて いるということもありますね。このあたり、未来の建築業界を担おうとしている学生 たちはどう思っているんだろうか。 五十嵐■学生の卒業設計を見ていると、やはり時代の雰囲気はすごく感じているみた いですね。たとえば80年代の学生たちは、もっとずっとはっきりとした形のあるもの をつくっていたように思います。まあ、ポストモダンの時代ということもあって、オ ブジェ的な建築です。ところが、今の学生たちの作品は、それらとは明らかに異るも のです。この間、横浜国大の卒業設計展を見る機会があったんですが、驚きました。 建築が自立していないんですよ。とにかく形がない。たとえば、すき間みたいな土地 に、ペタッとくっついたような建築とか、川沿いの空いたスペースにまるでサナダム シのような細長い建築をつくってみたり。こうした寄生型で自立していない建築を僕 はパラサイト型建築と勝手に呼んでいるんですが、そういう作品ばかりです。もう一 つはネットワーク型というか、町の方々にできた小さな空き地や100円パーキングみ たいな場所に、ポコポコつくってつないでいくような建築。こっちの傾向も多かっ た。 山形■大きな建築や都市計画を否定するという運動は60年代にもありましたよね。た だ、それでも何か別の形をつくろうとしていた。しかし、今の学生たちは、かつての ように反旗を翻して何かをつくり出そうとしているわけではないんですね。 五十嵐■1960年代にあった建築批判は、たとえば住民参加型の設計を提唱した建築家 のルシアン・クロールにしろクリストファー・アレグザンダーにしろ、自前の方法論 を提出した上での批判だった。でも、今は違うんですよ。たとえば、「みかんぐみ」 という若い建築家のユニットがありますが、彼らは「普通であること」というのをす ごく主張するんです。建築の設計にはヒエラルキーがつきものです。まずコンセプト やストラクチャーがあって、次に細部がつくられる。彼らはそういうヒエラルキーを 解体しようというわけです。いったんこれまでの建築にまつわる関係を解体した上 で、建築設計を構成する要素をすべて等価に扱う。当然、施主の要求も他の要素と等 価であり、彼らの要望もまんべんなく取り入れることになります。どうしてこのよう な方法をとるのかといえば、コンセプトを優先する建築家主導の枠から逃れるためで す。これは建築家がリードしてしまう現代建築への批判であり、建築における非作家 性の追及でもあります。考え方としては確かに面白いとは思います。しかし、その手 続きにはいささか気になるところがあります。施主の要求を等価にするといったとこ ろで、それは施主とのジャムセッションのようなもので、いつどこででも適用可能だ とは思えません。もちろん、僕は60年代型の建築家の方法論が正しいといっているの ではない。現代の若い建築家が、かつての建築家たちとは違って煽動的なマニフェス トなど掲げず、軽やかに建築をつくり上げていくのをむしろ肯定的に見ているくらい ですから。ただ、偶然性に頼らず、他の人でも使えるよう設計の方法論を徹底して突 き詰め、それを提出していくことはやはり必要だと思うんですよ。 山形■バブルがはじけて90年代は大きなプロジェクトが少なかったけれど、ようやく ここにきてまた大きなプロジェクトが動き出しているように見えます。いい加減何も しないことにはあきちゃって、そろそろみんな何かやりたがっているのかな、と思っ ていたんですが、そういう雰囲気ではないんですね。 五十嵐■最近完成している東京の大型プロジェクトは、ほとんどが大手のゼネコンが 手掛けたものです。それらは多分バブルの終わりくらいに動き出したプロジェクトで す。その一つである品川のインターシティなどを見ると、けっこうクオリティの高い 設計をしています。バブル崩壊後仕事が減って、その分、時間をかけて密度の濃い設 計ができたのかもしれません(笑)。しかし、設計者一般の意識は、もはやそういう ビッグプロジェクトには向いていません。計画という概念への不信感から、建築や都 市計画それ自体がいけないんだという雰囲気すら蔓延しているように思います。 ■「バザール型」のまちづくりは可能か 五十嵐■ところで、山形さんはエリック・レイモンドが書いた「伽藍とバザール」と いう興味深い論文を訳して、インターネットで公開し (http://cruel.org/freeware/cathedral.html)、本(光芒社)にもしています。こ の論文はLinuxというWindowsを凌ぐ勢いで普及しようとしているUNIX互換OSの開発方 法を分析したものです。コンピュータソフトの開発には、根本的に異る二種類の開発 スタイルがあることを論じたものですね。 山形■そうです。二つのスタイルを簡単にいえば、一つは、たとえばWindowsのよう に一つの企業が中央集権的に開発を行う方式。これは専門家がカテドラルを構築する ように開発するので「伽藍型」と呼ばれています。もう一つはLinuxなどで行なわれ た、プログラムを公開することによって多くの人がボランティア的に参加する方式。 多くの人があたかも市場に集い交流しながら共同でつくりあげていくので「バザール 型」と呼んでいます。そして「伽藍型」よりも「バザール型」の方式の方が、ソフト ウェア開発の未来に関しては可能性があると主張しているのがこの「論文」です。  「伽藍とバザール」を読んで、建築や都市計画にかかわわる人は、この「バザール 型」の方法で何かやれそうだと考えたと思うんです。今例に出た品川インターシティ はいうまでもなく「伽藍型」のタイプです。それに対して「バザール型」のタイプが ありうるだろうというわけです。実際そうした試みは始まっています。たとえば、磯 崎新さんがICC(インター・コミュニケーション・センター)と組んで行った開発プ ロジェクト「海市−−もうひとつのユートピア」(1987年)もその一つです。中国・ 珠海市の人工島の計画案を核にしたプロジェクトで、インターネットを使ってウェブ 上に仮想の人工島をつくろうというものです。しかし、残念ながらいい結果は生まれ なかったようです。「バザール型」でやったプロジェクトはじつはうまくいっていな いものがけっこう多い。それは、「バザール型」の開発が都市計画のアナロジーには ならないということではなくて、むしろ「バザール型」ということの本質的な意味 が、きちっと理解されていないところにあると思うんです。 ソフトウェア開発というと何か目に見えないものを扱っているように思われますが、 ちゃんとソフトという物(★ルビ ブツ)をつくっている。ソフトというのは実際に 物として使われるものです。ソフトをつくる人は、またソフトを使う人でもある。使 いながらつくっていくわけです。さまざまな人がさまざまな場面で好き勝手なことを 言ったりやったりしたとしても、最終的にはソフトという物をつくり、それをもっと よくしたいというところでは利害が一致している。そこが重要なところなんです。都 市計画のマスタープランをインターネットを使ってウェブ上でつくろうとする場合、 やはり同じことがいえます。最終的には現実世界の都市計画に結びついている必要が ある。いくらみんなで寄ってたかってワイワイやっても、現実に自分たちが生活して いる町と切り離されていたら、感心が薄れてくるのは当然でしょう。物理的な世界と 結びついている必要があるんですよ。利害関係なしになんでもありでは、ソフト開発 はうまくいかない。都市計画もそれは同じだと思います。 五十嵐■そうですね。確かにソフトは、使うためにあるわけですから。だからここが おかしいとなれば、すぐここを改善しようと動き出す。絶えずフィードバックがあ る。言うまでもなく、自分がそれを使っているからです。ところが、「海市」の場合 だと、実際に使うという場面がない。そこで実際に暮らしているわけではないですか ら、リアリティが希薄です。きれいだとかきたないだとかは言えますが、それがその 場所での暮らしや生活と結びついていない限り、単なる想像上の産物でしかない。た だ、コンピュータのソフトに比べて、建築や都市を実際につくってフィードバックさ せるには、より長い時間のスパンが必要となる。まだバーチャル・リアリティがそれ を短縮するとは思えないし。 山形■「バザール型」の場合、確かにみんな勝手なことは言うんですが、現実的には プログラムを書く人、プロジェクトをまとめる人、バグ取りをする人、またこういう 時におかしくなるといったレポートを書く人とか、それぞれ能力に応じて役割が自然 に決まる。一種のヒエラルキーができているんです。そういうものがまったくないと 思われているふしがあるけれど、そうじゃない。  それで思うんですが、都市計画において「バザール型」が可能かどうかという議論 の意味は、インターネットを使ってやるということにあるというよりは、直接民主主 義的な理想のシステムでやれるか、というところにこそあるんだと思うんです。ソフ ト開発の場合は、そもそもインターネットの発展と共に始まっていますから、そんな ことはわざわざ議論されるようなものではなかった。そこが大きく違うんでしょう。 五十嵐■日本人は日曜大工のようなものですら、だんだんやらなくなっています。ま ずそういうスキルを身に付けることが必要なのかもれない。インターネットのスキル というより、都市計画やまちづくりのスキルをまず身に付けておくこと。つまり、ソ フトの開発にかかわる人々がソフトを動かすことができるように、具体的に建築や都 市に関するスキルを持つということです。そうした前提があって初めて「バザール 型」ということが、アナロジーとして意味を持ってくるのかもしれませんね。  それと関連すると思うんですが、塚本由晴さんという若い建築家が面白いプロジェ クトを考えています。いわゆるアトリエ派の建築家は、小住宅をつくることが多く、 毎回一から設計をやり始めますが、苦労している割には実入りも少ない。しかし、極 端に個性的な条件の仕事はほとんどなく、大体は幾つかのパターンに分類できる。そ れに対して大手のハウスメーカーは、プロトタイプをつくって、それをちょっとづつ 変えながら量産する。これでは最初から勝負がついているようなものです。そこで、 アトリエ派も共同してまずプロトタイプとなるメタ住宅をつくり、それを共有しなが ら部分部分で各建築家が個性を出し、また改良を重ねていくという開発ができない か、と考えたわけです。まあ現実問題としてはいろいろ障害がありそうですが、考え 方は面白いと思いますし、これはある意味で建築家たちの「バザール型」設計といえ なくもない。 山形■ずいぶん前に読んだ小説にこんなのがあった。カギロイ人という人々が住んで いる町の話ですが、彼らは政治から日曜大工までこなせる万能な人々です。彼らは町 を歩いていて醜い建物があると、おれの方がうまく設計できるという挑戦状を建物に 貼るんです。そして別の場所にそれをつくってみせるわけです。すると建物の住人た ちがそれを見てそっちの方がいいとなったら、もとの家の設計者は首をくくられて殺 され、今までの家は壊されて挑戦者が設計した新しい家がその敷地に建つ。それがど んどん繰り返されて、町がよくなっていくという話。これこそ「バザール型」の建築 やまちづくりです(笑)。 ■デザイン性をどこに求めるか 五十嵐■いくらひどい建築を設計したからといって殺されたんではたまりませんが、 要するに、どのくらい建築家が責任をとれるかということですね。以前テラーニとい う建築家の集合住宅を見たくてミラノやコモに行ったんですが、テラーニの作品はも ちろんよかったんですが、その周囲にある普通の集合住宅も結構クオリティが高くて びっくりしました。すでに建築や町並みに対して市民の間でコンセンサスが十分にで きあがっているんでしょう。もしも変なものをつくろうものならすぐに批判されると いう雰囲気がきっとある。そういう下地があれば「バザール型」もうまくいくのかも しれません。 山形■アレグザンダーのパターンランゲージというのは、そういう環境をつくり出し ていく方法でしたよね、一種の啓蒙活動としての。 五十嵐■啓蒙というやり方自体にはまた別の問題がありますが、その方法自体は悪く ないと思います。しかし、アレグザンダーの方法には別の問題があります。そうやっ てできた建築は使い勝手は良いかもしれませんが、必ずしもカッコよくない。とにか くできたものがカッコよければ、それだけで説得力を持つんですが、カッコ悪いとな ると、建築界では方法論の魅力が薄れてしまう。ソフト開発の場合はシステムとして 悪いところはよくしていけばいいわけですが、つくってしまった建築のデザインに関 しては悪いからといって、簡単に修正できない。参加型のデザインは、美的な問題が からむと難しい部分がある。 山形■「バザール型」のソフト開発の一つの特徴は、どんくさいことです(笑)。 Linuxでもそうですが、洗練されていない。むしろどんくさいからみんなで参加でき るともいえます。一人の設計者が全部設計したらそれはカッコいいものができるかも しれない。でもそういう洗練さより、みんなでできることを優先させているのが Linuxのいいところなんです。つまり、どんくさいということの意味は、要するにシ ステムとして、バラしやすくて組み立てやすいということです。それと、なんでもい いからとりあえず動くこと。カッコ悪かろうが動かなければ意味がないんだから、と にかく動くことを優先する。そう考えてみると、アレグザンダーの方法でカッコいい ものはできなかったとしても、とりあえず「バザール型」でみんなの意見が反映され たのであれば、それでもいいんじゃないのかな。価値観をどこに求めるかということ だと思います。 五十嵐■カッコいい/カッコ悪いという基準でそのデザインを見てはいけないのかも しれない。プランニングやプラグラムとしてちゃんと機能すればそれでOKとすること も、じつは重要なのかもしれませんね。 山形■フリーソフトの世界では、できたソフトよりできなかったソフト、失敗したソ フトの方が圧倒的に多い。途中で放棄されたプロジェクトも山ほどあるし。要は、そ ういう価値観を共有できるかどうかということです。 五十嵐■無数の失敗をしながらやるプロジェクト。しかし建前上、都市計画では難し いでしょうね。まず、それを許すような社会をつくるところから、始めなければなら ないかもしれません。すべて完成しなくても、とりあえず機能させておいて、必要が あれば増改築していく。そういうプロジェクトができるような合意形成が得られれば いい。  パリのグランプロジェは、新凱旋門とか BNF(新国会図書館)とか華々しくできた ものが注目されるけれども、じつは半分くらいが増改築でつくられたものです。ラ・ ビレットの科学産業館は、途中まで躯体をつくって建設中止になってたものを、接ぎ 木するようにして完成させたものだし、オルセーの美術館も廃屋を再生したもので す。とりあえずフレームはつくっておいて、あと少しづづ足していく。箱物行政は批 判の対象になるけれども、後世にリプログラミング可能なしっかりした箱だけはつ くっておいて損はないと思う。「バザール型」の視点を導入すると、建築デザインに 関しても別の見方ができそうです。 山形■建築家の責任のことを五十嵐さんはおっしゃったけれど、同様に住民も責任を 持つということです。オープンソースの場合では、参加者がプログラムを書き換えた 時は名前を残しています。それは誰でも同等であるということと同時に、誰でも同等 に責任をもつということです。 ■未来都市に、都市計画は復権するか 五十嵐■山形さんは、今後、都市はどう変化していくと思っていますか? 山形■コンピュータの性能があと五段階くらい上がっていくと違ってくると思いま す。もう少しましなモデリングができるようになると、かなり今の雰囲気は変わって くるんじゃないだろうか。たとえば、都市計画もまた新た視点から見直されるように なることもあると思う。予測というもの自体の精度が極端に高くなっていくと、計画 も案外いいぞということになるかもしれない。もう一回都市全体を計画し直そうとい う考え方が復活する可能性はおおいにありうる。 五十嵐■そういう揺り動かし、反動はありますね、きっと。 山形■反動ということでもう一つ言うと、高密度化ということが盛んに批判されてき たけれど、僕は逆に見直される可能性が出てくるんじゃないかと思っています。日本 を始めとして世界各国で人口が減っていき、昔みたいに都市がスプロールしていくよ うなことが起こらなくなった時、しばらくは都市の中であるいは近郊で、広い家を 買って喜ぶというようなこともあるでしょう。しかし、その後は再び都市にみんなが 集まって住む高密度化という傾向が出てくるような気がします。その理由は高密度化 というのはコストが低く抑えられるということ、もう一つは、広い空間に住んで自由 に生活するといった欲望は、情報技術の発展によってバーチャルな世界で解消できて しまうから。コンピュータ・ネットワークの発達によってつくり出された情報空間 が、そうした実空間と重なり合うことで物理的な距離感を無化すると、高密度な空間 はネガティブな要素ではなくなるかもしれない。さらに言うと、実世界としての都市 空間も大きく変貌する可能性がある。さっきちらっと話が出たけれど、建築にとって 外側のデザインはもしかするといらなくなるかもしれない。それこそケイタイのよう な端末を各自持ち歩くようになれば、情報は端末からダウンロードすればいいわけだ から、建築物はただの箱でいいわけです。建築の形態の意味が変容するということで す。 五十嵐■自然環境への負荷の問題を考えても、高密度化は、もう一度注目されるので はないかと僕も思っています。ル・コルビュジエの提案した高層都市も悪くないかも しれない。それと今の話はとても面白い。というのは、ディズニーランド(アメリ カ)が1996年にセレブレーションという人工都市を起動させて、最終的に2万人くら いが住む予定です。 ウオルト・ディズニーが1960年代に考えた人の住む理想都市エ プコットはいかにも未来イメージでしたが、彼の亡き後に実現したセレブレーション は、デザインはガラッと変わり、古きよきアメリカの町並みになってしまった。これ は要するにニューアーバニズムの流れで、高所得者のための閉ざされたゲーティッド ・コミュニティに近いんです。もちろん外側はそういうノスタルジックな建物です が、情報インフラはAT&Tが共同し、最先端のものが入っている。確かに外側のデザイ ンはある意味で関係ないのかもしれませんね。  マーティン・ポリーという建築評論家は外部と内部の分裂したものをステルス建築 と呼んでいます。例えば、外側は歴史的な古典主義建築で、中はガチガチのハイテク ・ビルディング。ステルス戦闘機のように、高性能なのに、外観が町並みに埋もれて 見えない建築が増えています。 それから山形さんがおっしゃった人口減少化、情報技術の進展、それに高齢化が重な ると、労働人口を確保するために移民を入れざるをえなくなってくる。そこで日本の 場合、イスラムなど信仰や生活形態がかなり違う人々と摩擦が起きてくると思うんで す。これは都市を一変させるかもしれませんよね。 山形■オウムに対するように住民がパッシングを行うんだろうか? 五十嵐■話が少しズレますが、オウムと住民の紛争問題のニュースを見ていて思うの は、オウムが来る前この住民たちは自分が住んでいる町なんてあんまり意識しなかっ たと思うんですね。 山形■オウムという他者が来たことによって急に意識し出したんだ、自分のコミュニ テイを。 五十嵐■ふるさと創生基金の一億円をばらまかなくても、オウムが巡回するだけで各 地のコミュニティ意識は高まるわけですよ(笑)。ちょっと不謹慎な言い方かもしれ ませんが。さて、オウムは国内問題だからともかく、たとえばイスラムに住民がパッ シングを加えたりしたら国際問題になってしまう。そのために同じ空間を占有しなが ら、違う時間を生きるような選択肢が出てくる。そこでバーチャルな技術をうまく使 いながら、生活様式が違う人と人がなるべく交わらない生活が提案されるのではない かと思うのです。  それと都市計画とコンピュータの関係性で思い出した建築家集団があります。 MVRDVというオランダの若手建築家たちなのですが、彼らは宇宙空間に漂うような自 律型の高密度都市をバーチャルに設定し、生活に必要なデータをコンピュータで解析 することによって、その都市形態をデザインしていくプロジェクトを行っています。 たとえば、二酸化炭素を排出した場合、その回復には、これだけの森が必要となると いうデータを真正直に使用し、都市計画に導入するんです。そうすると二酸化炭素を 大量排出する工業地区には、高さが100kmを超える3834階建の森が必要となり、それ をその通りコンピュータによって描いてみると、超絶のランドスケープができあがる わけです。  彼らの特徴は、都市計画を感情的に批判するのではなく、反対に都市計画を徹底的 にやることによって新たな表現を獲得しているところです。また、現実的な厳しい諸 条件を逆手にとって一点突破するその手つきの鮮やかさも魅力的です。官僚主義的な 数字をわざと使って、考えてもみなかった都市景観を出現させているわけですから。 そして、これはやはりコンピュータでいろいろなものが簡単にシミュレーションでき るようになったからできる表現なのですね。 山形■こういうものを見ても情報技術の進展は、都市計画の仕方を大きく変える可能 性はあるなと思えますね。そして、ソフト開発の一方式である「バザール型」が、ま ちづくりに大きな影響を与えることも確かに考えられるわけです。