>浅田式「クラインの壺」は、
>(中略)
>作り出されたんじゃないかと思うんです。
あのねえ、読んでもいない浅田の説を勝手にでっちあげるのはやめてくんない? 円錐の底辺を 張り合わせた図形を浅田は「構造と力」の中で使っていて、それはてっぺんの頂点に王さま、底の 頂点にスケープゴートを配置した、これまたプレモダンの模型なのよ。ピントはずれはあんた一人よ。
あとなんばりょうすけ氏は、「構造と力」のp.196を読むこと。ちゃんと浅田は、クラインの壺について (まちがった)説明をはっきりしている。二人ともそういうのをちょっとチェックする手間を惜しまないでおくれ。
というわけで、この先よっぽど改善が見られない限り、この二人をぼくはもう相手にしません。特に柳田氏は発言になんの根拠もなければ 論理性もないことは、すでにはっきりしたし。お大事に。最後のアレで、リンクは削除しといたし 文は一部改めておきました。
トポロジー的にまちがっているのは、トポロジーを知っていれば明白なのだから(プレモダン円錐も浅田「クライン」もリゾーム(つながってる部分)も、トポロジー的には、球で相同)、浅田がはっきりとクラインの壺と言ったことが、知の詐欺になるのだろうか? 本人たぶん気付いてないですよ。浅田に言うべきは「クラインの壺って呼称をやめなさい」でしかないんじゃないか、と。あの図はそれなりに論旨を説明しえてると思うし。
>浅田式のクラインの壺を、トポロジー的におかしいといって非難する方法は、
>ピントはずれに見えてしかたないのです。
そう見えてしかたないのであれば「知の欺瞞」をとりあえず(序章だけでもい
いので)読んでからもう一度見てみましょう。ようは、膜なんぞをひっつけた
トポロジー的に間違ったクラインの壺(あれは「構造と力」のなかでは、
はっきりと「クラインの壺」と言われている)を用いて、なにかの説明を行う
というスタイルを山形さんはご丁寧に解説&非難しているのでございます。
そんなことを今さらする必要があるのか?という疑問はあるかもしれませんが、
「ピントはずれ」という反論は、それこそ「ピントはずれ」ではないですか?
ぼくからすると、浅田式のクラインの壺を、トポロジー的におかしいといって非難する方法は、ピントはずれに見えてしかたないのです。
>あるはずもない『膜』なんぞを作って、トポ
>ロジー的に全く誤った別の物体を例にして語るのはどーかと思う
いや、あるんですよ。膜は。あの図には。そういう図形を浅田さんはクラインの壺だと勘違いしてして話している、ということです。実際に浅田さんは「底」と発言しているのだから(だから本人じゃなければわからないということはない)。そういう浅田さんを「どーかと思う」のは同感です。
あと、運動の方向がどっちでもいいのはそのとおり。重要なのは、あの「底」の上にある点線部が、浅田式の説明では無視されてしまう、ということです。
>たかたさん
>「西麻布の壷」の山形解釈
というのは、ちょっとわかりません? (山形さんによる)そんな発言はありましたっけ?
あと、ぼくの「訂正要求」は、山形さんが支離滅裂な発言のつなぎとして、面白おかしく創作された部分に関してのみです。昨晩のぼくの発言が支離滅裂だったのは事実なのだから、それ自体はいくらでも笑いものにされて結構なのです。
浅田式「クラインの壺」は、
1.プレモダンよりも相対的にするために、プレモダンの円錐を2つ用意して…
2.でもそれだけだと、円錐の内容はまったく変わらないから、円錐の頂上をパイプでつなげて…
3.それをほっとくとリゾームの原型になってしまうから、一国モデルを保持するために、2つの円錐の底面を重ね合わせて…
作り出されたんじゃないかと思うんです。
え? 「類推」って何のこと?(単に日本語の間違いならいいんですが)
あと、「する必要もない新たな解釈」なんてする人がアレなだけですし、
そこまで山形さんのせいにするのはどういう了見なんでしょうか?
> 結城さんのように山形さんの紹介を通じて > 浅田の「ポストモダン」解釈(普及版)を「理解」してしまう方が存在すること > 、そしてその「理解」が使えないものであることを考慮したとき とあるのですが、私は山形さんの説明で、 「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」が「わかって」しまったのですが、 それは使えないものなのでしょうか。 専門家(って何)ではない私としては、文章中に「ポストモダン」とあったときに 「ふんふん、これは規範がぐちゃっとなったやつね」 と理解できればとりあえずうれしいのですが…。 そーゆー意味で、山形さんのバッサリ切った解説はうれしかった。 もしも東小園さんが「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」について、 もっと正しくわかりやすく(そして短い)解説をしていただけるなら、 とてもうれしいのです。 # これは批判や皮肉ではありません。念のため。 # 専門用語を、大づかみでわかりやすく、 # それなりに正確に語ってくれる存在というのは貴重なのです。
もともと浅田氏を擁護する気も山形さんを批判する気もなかったのですが、気になる点もあるので書いておきます。浅田氏の「クラインの壺」の図(図だとすれば)の何がまちがっているかといえば、循環するとかしない以前に、本文の筋書きと「クラインの壺」に固有の性質との間の対応関係がまともに説明されていないところがまちがいなのではないでしょうか?
でも山形さんは浅田氏がうやむやにしているところを(ご親切にも)類推してあげて、そうやって解釈したもののまちがいについて説明しています。もちろん山形さんはああいう解釈をする人たち(多分いっぱいいる)に対して「おまえ騙されてるぞ」と指摘するために一から十まで懇切丁寧に説明しているわけですから、それはそれでいいのだと思います。
けれども、ああやって壺の図の解釈問題にやたら力がはいっているせいで、かえってする必要もない新たな解釈を誘発していないでしょうか?
いや、あれはまさにそれが狙いで、うっかり屋さんをドツボにはめるための罠なのだ、ということなのでしょうか?(きっとそうだ)。それならそれで、ああ、山形さんって人が悪いなぁ、と思わずにはいられないのです。
>「貨幣」や「商品」の動きがどうだろうと
「貨幣」や「商品」の動きの方向がどうだろうと、
。。。というのは嘘で、リンク希望というのは、
などと思いを巡らせたあげく、「そんな手加減は無用ですのでどうぞリンクなさってくださいな」という意味で言ったつもりでした(わかりにくくてすみません。)
そういうことではなかったのであればリンクしていただく必要はありません。って、もうリンク済なんですね。。。
西麻布さん、アサダ氏の間違ってるというところは、「貨幣」や「商品」の動きがどうだろうと、全然関係ないのです。老婆心ながら申し上げますが、クラインの壷のルールがどうとか、四次元がこうとか言う前に、西麻布さんは、きちんと中学レベルの幾何から誠実に勉強しなくてはならないと思います。でなくては、西麻布さんの解釈のどこが間違っているかを説明しても、多分、理解いただけないでしょう。
それから、西麻布さんの「訂正要求」が客観的に正しいのかどうかは、西麻布さんが、「クラインの壷」と間違えたのがどういう図形なのかが、説明されないと判断の下しようがないのもお分かりですか?
そもそも、「西麻布の壷」の山形解釈が間違ってるかどうかってこと自体、面白い話題とも思いませんが。
こういう日本語の通じない人にはどういえば分かるんだろう? だって、別にあの図の「貨幣」だろうが「財」だろうがどっちも運動の方向なんて 書いてないし、もともと運動の方向がどうだろうとトポロジー的にはなんの関係も ないし、だいたい山形さんの批判は「あるはずもない『膜』なんぞを作って、トポ ロジー的に全く誤った別の物体を例にして語るのはどーかと思う」ってことなのに。 しかも、「浅田さんにとっては」とか「クラインの壺を用いていない」という説明 は、本人でもない他人がどうやってわかるというのだろう?恥ずかしくて読んでら れないっす。うー、かゆい。
えっと、みなさんはこの図をクラインの壺と思って、批判を加えられているわけですよね?
その場合、この図における「貨幣」は点線で描写された通路から通ってきて、いまは、下に落ちつつある状態になっているわけですよね?
ぼくは多分逆だと思う。実際には「貨幣」は「底」から点線部を突き破って、垂直にあがって、上に上りつつある状態なんだと思う。浅田さんにとっては。そして浅田さんは、「壁」を突き破っている(クラインの壺のルールを破っている)意識すらないと思う。
それはクラインの壺の特性を無視しているのだけれど、図の脇に付されている円錐を読者をミスリードするための仕掛けではなく、「クラインの壺」にいたる前の状態の例として付されていると考えたら、「貨幣」が垂直にあがるのだと考えたほうが自然な気がします。
状況証拠は、山形さんのQ3における発言がそれです。
>個人的にはトーラスとトポロジー的には同じ図形
それは「円筒の両端を同じ膜の両面で塞いだ図」ではないですか? <これはトーラスではないですけれど。
そいつはむしろモダンより生き辛いのではと(現実の千葉市とはほぼ無関係に)。
山形さんは浅田の「逃走」を批判しているのだから、それで首尾一貫はしますね。
チバ・シティー。
その論者は、ハリ・セルダン。っていうか、山形さんの文章見るかぎりでは、
山形さんが、セルダン的なものを期待してあこがれていたように読めるんだけど。
君はまだそういう事をいうてるのかね。
君の言ってる、「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」というのが、どういう図形なのか、まだ誰も説明を受けていないのですよ。
その、西麻布さんがクラインの壷と間違えたという図形は、どういう風に作るものなのかトポロジー的にどうなっているのか、誰も、さっぱり分からんのです。
個人的にはトーラスとトポロジー的には同じ図形なのではないかとおもう。だって、二つの「口」と「ふた」を筒の内部にある粒子が行き来可能なようにつないだら、トポロジー的には「アサダの壷」そのものではないの。
でしょ?
山形さんにとっての「ポストモダン」ってどんなものなんでしょうか?(まさか「『構造と力』で示されているようなものだ」とはおっしゃらないでしょうが)。もちろん「そんなこと興味ないから言わないんだも〜ん。僕はただ壷の話をしてるだけなんだも〜ん」というのも正当な答えだと思いますが、結城さんのように山形さんの紹介を通じて浅田の「ポストモダン」解釈(普及版)を「理解」してしまう方が存在すること、そしてその「理解」が使えないものであることを考慮したとき、山形さん御自身の見解を明示されないことが傷となるのではないかなと泥亀的にはそう思うのです。
クラインの壺は「壺であって、かつ、筒である」ものなので、くっついているように見えるあのラッパの口のふちのところは実はくっついていないのだと思います。
この「くっついているように見える……」以下ははっきりと山形さんの創作なので撤回していただけないでしょうか?
SQ5にまとめられた昨日の意見は、私が「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」が「クラインの壺」だと勘違いしていた結果でした。昨日の投稿の「クラインの壺」を「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」と置き換えてもらえば、意味はまだ通じると思います。クラインの壺は内容物が循環しませんが、「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」は内容物が循環します。(内容物が端から端へ移動し、スタートとゴールが同じ。)これは浅田さんの図のとおりではないでしょうか。(もちろんこの部分のあやまりは私の責任なのですから撤回は求めません)
そしてQ03を読む限り、浅田さんは当初から今まで「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」が「クラインの壺」だと勘違いしていたと思います。
浅田式クラインの壺の代案として出された、ドーナツの「アサダの壺」では、内容物が循環しつづけて落ち着かないのですから、浅田氏本人が「底」といっていることを掬いきれません。(でもクラインの壺の話をしていたんだから、底はないに決まっているだろ、と切り捨てても結構ですが。浅田さんが「円筒の両端を同じ面で塞いだ図」が「クラインの壺」だと勘違いしていたと考える限りの話です。) 「底」として、ドーナツ管のなかに、いちまい壁を入れたら、壁には裏表があるのですから、吸い上げられたものはもとの面に到達できません。
黒木さんのお声も聞いたような・・・視覚記憶がわりと強いものですから、 あの赤いでかでかとした文字も忘れられないような・・・・
夕べはリアルタイムで見てて大変面白かったです。 ぼくも(というか田崎さんと並べて言うのはおこがましいにも程がありますが) 数学好きの素人で、幾何には強い関心を抱いていますので。 美術の人たちに「幾何は面白い」って言っても同意してくれる人は少ないんでいつも 寂しい思いをしてます。 山形さんが教えてくださったサイトは収穫でした。大変面白かったです。 自分は積極的に思想と結びつけるつもりはありませんがトンデモにならないように 気を付けなくては・・・・学部レベルの学習、学習と(笑)
わかりました! (そして山形さんの手直しされた文章を読みなおしたら、アサダ氏が「循環する」 とか言ってるのがいかに間違ってるかは、火を見るより明らかでした。どうも)
「水がたまるか」とかだけなら(封入はできないが、「底」にためることはできる。もちろん) 落ち着いてよく考えれば、 位相空間論の知識などなくても、わかります。
ので、まとまりないですが、お許しを。
ぼくの遊び方にかいてある切り方をすると、あるお馴染みの連結な図形が得られて、 クラインの壺の種数 (genus) が2であることがわかります。 (ちょっとだけ説明) このガラス細工の写真のように、ふたつのメビウスの帯にわけるには、 もっと素直に対称面での断面をつくるように切ればいいわけです。 「遊び方」の場合の倍ほどの距離を切ることになります。
ところで、ぼくは偉そうに書いていますが(そして、 ぼくの書いていることは正確だと思っていますが)、 ぼくはトポロジーの専門家でもなんでもない。 少なくとも幾何の分野に関しては、 ぼくは単なる数学好きの素人です。 しかし、この議論をするのに必要な知識は、
このあたりで黒木さんの声を聞いた気がするが…。
気のせいだったか。
これを 見るとクラインのつぼがメビウスの輪を二つくっつけたものなのがよくわかります ね。
いっぱいありますが、 読んでいる暇がない。 なんか解決してるみたいな気もするし。
ぼくは、これから、円筒状の図形(クラインの壺をある閉曲線に沿って切断したもの)の開口部からバリウムを含む流体を流し込み、 最終的に反対側の開口部に到達するか、 などの(人体)実験を(自ら)やりにいくのですよ。 そのため、昨晩の9時以降何にも食べてない。 お腹は減ったが、まだバリウムなんか飲みたくないですなあ。
じつはあれはかなり反響があって、ほかにも似た内容のメールがきてるんです。 なんばさんのは長くてまとまっていたので参考にはしましたが、別にそれだけって わけじゃないし、むしろわかりやすかったからで(ほかのは差異性の契機がどうした こうしたとか)個人がどうこうではなく、典型的な症例ってことで例示した だけです。だからあそこからリンクを張るのは……まあご当人の希望であるなら。
なんばです。広報部のみなさんはじめまして。
『浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、めぐらないのだ)』の SQ02 って私の日記を指して言っているのでしょうか? どうもそのような気がするのですが、もしそうであればリンクを追加していただけるとありがたいです。
ちなみに私は山形さんの指摘を「揚げ足取り」とは思っていませんし「大勢に影響しない」とも思っていません。浅田氏がクラインの壺をハイパー資本主義の数学的なモデルとして提示したつもりならそれはひどい間違いなのだからさっさと撤回するべきだというのは山形さんの文章を読んで納得しました。
しかし浅田氏が山形さんの指摘するようなことは全部承知の上で、それでも訂正する気がないのだとしたら(もちろんそう仮定するのは邪推ですが)、浅田氏はモデルを提示するつもりではなかったと見做すべきで、それならそれでそれ相応の受け止め方(図じゃなくて絵だとか、浅田氏は性格悪いとか)をするほうがいい、というのが私の文章の主旨です。
「見做すべき」と書きましたが、実際そうである可能性は高い、と、あれを書いた時点では思っていました。でも『浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、めぐらないのだ)』の FAQ に新たに加わった Q03, Q04 を読んで、今では「浅田氏は本気であれを立派なモデルとして提示したつもりで、今でも間違いに気付いていない説」のほうが有力ではないかと思っています。
とは書いたものの、なんかまたもやハヤトチリをやらかしてしまっているような気がしてきた… 田崎さんの「クラインの壺を高次元に埋め込んで作るとすると、その次元の「水」をためることはできないと思う。「水」を封入するには、空間次元より1だけ小さい次元をもった境界のない向き付け可能な多様体をつかう必要がある」を復唱してみるものの、頭がうごかないょ〜 というわけで、夢の世界に連れて行ってみます
三次元の(普通の)壷に三次元の(普通の)水はたまるのに…などというナンセンスなことを思い描いていたことにやっとこさ気づきました。「三次元の壷の断面図に水をためられないのと同様」という説明で一発でわかりましたです、はい。なにやら「多様体」などの数学用語に目が眩んでいた模様です(言い訳)。なんかえらいすっきりして、これで悪夢も観ずに安眠できそうです。ありがとう
そうすると、このクラインの壺の場合で言えば、実際には、見かけ上の開口部から吸い取られた粒子状のものは、見かけ上の内側の錘に、ゴミが屋根に落ちるように舞ってきて、それが見かけのエッジに溜まっていくということですか?
では、ドーナツ型をつなぐのとは反対につなげる、というのは、同時に、反対の方向で筒の口を塞ぐということなんですか。塞いであるのに、穴に見える。けれど実は…、ということですね。
わかりました。逆の意味に勘違いしていました。ごめんなさい。
「クラインの壷」に「その次元の水」を入れることができないのは当然でしょう。
「壷の断面図」に水が溜められないのと同じです。
というか、そういう事を考えること字体が無意味とおもう。
あと、液体が循環できないのは、内部と外部がないからでは?
「クラインの筒」の中をヒコーキで飛んでいたら、いつのまにか、筒に沿って
外を飛んでいるということが起きるのでは?
>「この世でこれを実行しようとしてもむりですから、あの世でやってください」という
>あたりはどのように読まれたのでしょうか?
あなた、ホントにこれが何を言っているかわからないの? この世(つまり三次元の世界) で、そのメビウスの輪のぬいあわせをやろうとしたら、これまでいっぱい見せてきた図形の ように、どこかで面を破らないと(何度か出てきた「つっこむところ」です)実現できない、という こと。「あの世で」というのは、ジョーク。
>という定義にそって図を書いてみてください。
だからぁ、その図はもうさんざん見せてあげたでしょうに。ただ、これを三次元でやると、 一ヶ所面に破れをつくることになる、というだけのことです。「つぼでもあり、管でもある」なんて話は いっさい出てこないの。
>後日メビウスの輪をクラインの壺に再構成するのを動画か、複数の写真かで見せていただきたいです。
たざきさんのやつを自分でつくって、あそこの「遊び方」の通りにやってごらん。そしてそれを逆にすれば ご希望どおりのものができる。
>つながっているのは、面ではなく、長方形の辺だけです。
あの、面もつながっていますんですよ。メビウスの帯は、ふちがあるのですが、クラインのつぼの特徴は ふちがなくて面が完全につながっていることです。クラインのつぼの面上にいる二次元の 物体は、その面状のどっちの方向にも、制約されることなくグルグルと動けるのです。
それを示すアニメーションがここにあるのでごらんください。「クラインの壺のうえを動く二次元のカニ」の図です。
http://www.math.ohio-state.edu/~fiedorow/math655/Klein2.html
しかしこんなのを待つまでもなく、辺というのは長方形の面のエッジでしょうに。そのエッジがくっついたら、 面だって当然なんらかの形でくっつくにきまっているではないですか。本当にちゃんと理解されていますか?
クラインの壺は、流体は循環できないのです。入り口と出口が同じだから。浅田さんが、価値や貨幣を点・粒子で表現したのは、このことを理解していたからだと思われます。
いや、こちらの身分をばらされるのは結構なのですが(ばれるように書いてたし)、なんでしたら西麻布というの、やめますか?
たかたさん
>でも、西麻布さんが、単純に間違ってるのではないかとおもいます。「筒」の
>両方の口に一枚のふたで同時にふたをする事はできないでしょう
いえ、ですからそれができるから4次元なのです。再掲しますが、
まず、クラインの壺の正確な定義から始めましょう。定義は簡単です。図6-17のように長方形を考え、同じ矢印のところをそれぞれアイデンティファイしたものです。ただそれだけです。(91ページ末尾)
という定義にそって図を書いてみてください。実現可能かどうかを度外視して。それはこんな図にしかならないはずです。
それで山形さんですが、
>ブルーバックスの引用は、ぼくが言っていることを裏付けこそすれ
とのことですが、「この世でこれを実行しようとしてもむりですから、あの世でやってください」というあたりはどのように読まれたのでしょうか?
後日メビウスの輪をクラインの壺に再構成するのを動画か、複数の写真かで見せていただきたいです。がんばってください。
「あるいはたざきさんだっけな」というのは、私めが「(この赤い淵が見えるのが気もちわるくて)四次元人になりたい」とかほざいていたあたりの、このたざきさんの「クラインの水たまり?」の投稿のことですよね?
この田崎さんの投稿の中で実は気になり続けているのが「山形さん、クラインの壺を高次元に埋め込んで作るとすると、その次元の「水」をためることはできないと思う。「水」を封入するには、空間次元より1だけ小さい次元をもった境界のない向き付け可能な多様体をつかう必要があると思うけど」という指摘。アサダの壷解釈(あるいは理解もしくは批判)のためにはどう考えれば良いのでしょうか…、たざきさ〜ん!
クラインの壷を「筒」に垂直の方向に閉曲線で切り開くと、「筒」というか
「輪」ができます。「筒」の方向に平行に切り開くと、メビウスの輪ができます
で、僕は、先の投稿をした時、西麻布さんが、「筒」に垂直に切った時の任意の
切断面のことを、「口」と表現したのだと思って、「口」にふたをすることについて
いろいろ考えてみました。
でも、西麻布さんが、単純に間違ってるのではないかとおもいます。「筒」の
両方の口に一枚のふたで同時にふたをする事はできないでしょう。
だって、一方の口のふたは、もう一方の口の外側の空間全体に広がらなくては
いけないですから。
>まず「3次元のクラインの壺」が、クラインの壺の定義のうちひとつ「口(くち)が一つだけある」のみを
>満たしていることをご理解ください。
えーと……ほかの定義はなんなんですか? ぼくはこんな定義を見たことないんですけれど。
>実際のクラインの壺は「壺であって、かつ、筒である」ものなのです。
これも、ぼくはまったく見たことがない定義というか説明です。ぼくは自分なりの理解を説明したし、 ぼくの見方を示す模型や、その筋の専門家の引用などを提示いたしました。それに 対抗しうるだけの論証や傍証は、何も出てきていませんね。ブルーバックスの引用は、ぼくが言っていることを 裏付けこそすれ、柳田さんの説の裏付けにはまったくなっていません。
Hal 田崎式クラインの壺で、クラインの壺の遊び方、というのが最後にあります。あれは何をする ものかわかりますか? クラインの壺を、まさに正式な定義どおりにメビウスの帯二本にするための切れ込みの入れ方を 示してるんです。ここからも、あれがきわめて本物の(つっこむ部分を除けば)クラインのつぼに近いものだと言える ことがわかるでしょう。
>黒木さんの板でどなたかが、「横に突っ込んだ管を、想像力でずらしてみる」とおっしゃったのは、 >そのことを指すのでしょう。これって……うふふ、たぶんこのぼくが言ったことをちょっとまちがって記憶してるんだと 思いますよ。あるいはたざきさんだっけな。でも残念ながら、どっちも「そのこと」を指しているのでは ありません。ぼくが言った(そして Klein Bottle 社の説明にもある)、横っちょの面が破れるところの話ですよ。
クラインの壺に蓋が必要というのは、そうでないと浅田氏のいう価値や貨幣がこぼれおちるからであって、それ以上の意味はありません。
私は、たかたさんのおっしゃられた解釈以上のことを言っているつもりはありません。たかたさんの解釈のとおりです。ただ循環のところで「一方の口の外側の面は、もう一方の口の内側の面と必ずつながっている訳」と述べられているのは、3次元的な見方にかたよっていると思います。つながっているのは、面ではなく、長方形の辺だけです。
私は、4次元というのは、「3次元では相反する事実が同時に成り立っている状態」くらいに考えています。
ずいぶん物分りがおわるいようで、かえってとまどっています。私には山形さんのほうが3次元へのこだわりを捨てきれていないように見えます。
まず「3次元のクラインの壺」が、クラインの壺の定義のうちひとつ「口(くち)が一つだけある」のみを満たしていることをご理解ください。えらそうですが。
で、実際のクラインの壺は「壺であって、かつ、筒である」ものなのです。だから、3次元では実現不能なのです。黒木さんの板でどなたかが、「横に突っ込んだ管を、想像力でずらしてみる」とおっしゃったのは、そのことを指すのでしょう。
しかし、山形さんが「じっさいのクライン壺は、浅田のようなものじゃない。一般にはこんなふうに書く(大意)」として出された図は、3次元で可能なクラインの壺、つまり、「壺であって、かつ、壺でしかない図形」なのです。
>クラインのつぼって、内側・外側が定義できるんですか
さあ、私は、数学の専門家どころか、数学は高卒レベルにも満たないのでおおきなことは言えません(「内項と外項の積」は重宝しています)が、川久保勝夫『トポロジーの発想』(講談社ブルーバックス)によれば、
まず、クラインの壺の正確な定義から始めましょう。定義は簡単です。図6-17のように長方形を考え、同じ矢印のところをそれぞれアイデンティファイしたものです。ただそれだけです。(91ページ末尾)
と述べられ、図として各辺に
→
↑ ↓
→
と矢印の付された長方形が書かれています。「トポロジー的には、長方形をもってきて…」まさにそのとおりです。
わたしはこの本からクライン壺を考えはじめたので、クライン壺とメビウスの輪の関係はよく理解していません。(すぐあとの94ページに、3次元クライン壺を割って、概念操作をくわえるとメビウスの輪になる、という話題は載っています、ただし川久保氏によると…)
クラインの壺は、いろいろと面白い性質をもっています。そのいくつかを拾ってみましょう。/まずクラインの壺はメービウスの帯2つから成っていることです。メービウスの帯を2つ用意して、縁に沿って両者を張り合わせると、クラインの壺になります。ただし、この世でこれを実行しようとしてもむりですから、あの世でやってください。
ということになります。
管であって、なおかつ、壺でもあるのです。だから3次元では実現不可能なのです。管であるのだから、口(くち)は2つあるし、同時に、壺であるのだから口は一つしかない。これがクラインの壺を理解する肝でしょう。
さっきの ACME Klein Bottle と、あとこんなとこがおもしろうございます。特に、ここは クラインのつぼアニメがなかなか楽しい。
http://www.geom.umn.edu/zoo/toptype/klein/
うん、やっぱ世界最大のクラインの壺メーカーも、あの赤い水の入った 三次元版疑似クラインの壺が4次元版本物クラインの壺とちがうのは、 あの管をつっこむときに面を破るところだけで、それ以外は4次元版と 同じだ、という見解ですぞ。
A Klein Bottle cannot be embedded in 3 dimensions, but you can immerse it in 3-D. We represent it in glass by stretching the neck of a bottle through its side and joining its end to a hole in the base.Except at the side-connection (the nexus), this properly shows the shape of a 4-D Klein Bottle.
http://www.kleinbottle.com/whats_a_klein_bottle.htm
(この会社はなかなかおもしろいのでひいきにしてあげてくださいな。)
というわけで、ぼくはまったく納得できないのです。
ええと、僕は、始め、西麻布さんが、クラインの壷の
表面に沿った動き以外を想定するのはおかしいという種類の議論かと
思ったのだけれど、言っているのは、
一本の管の両端の口が同じになっている、三次元では不可能な図形が
「クラインの壷」であって、三次元でむりやり管を曲げたり面を
貫いたりして作った「クラインの壷もどき」の挙動とは違うということ
ですか?
ええと、「壷の二つの口」はトポロジー的に違う点がないのだから、
「壷のふた」は両者を等しくふさいでいなくてはならないと。
でも、素人考えだけれど、一方の口の外側の面は、もう一方の口の
内側の面と必ずつながっている訳だから、間の空間に入ってきた時に
循環したと表現するのはやはり不適切では?
それとも、そういう、三次元的な理解自体が不適切なのでしょうか?
ええと、なにか、このあたりについて、詳しい説明などのあるページ
はありますか>西麻布さん。
>壺の内部にある内容物にとって、壺への蓋の有無は関係がない
????クラインのつぼって、内側・外側が定義できるんですか? メビウスの輪が 裏表を定義できないように、クラインのつぼって内側外側が定義できないんでしょう? ふたがついたら循環する、というのも、趣旨がわからないのですが。
「入り口と出口が同一の管」というのは未だに理解できません。クラインの壺というのは 閉曲面で、閉曲面をつくる以上、入り口と出口はくっついてしまってす。実際には管の入り口と 出口が別々にある、というのはなんのことですか?
管の「中」とか「外」とかおっしゃいますが、管になっているように見えるのは、まさにクラインのつぼを 無理矢理3次元でビジュアライズしようとするときの方便なんじゃないんですか? トポロジー 的には、長方形をもってきて、たて辺同士を同じ向きで、横辺同士を逆の向きでつなげれば いいだけでしょう?
西麻布説だと、ぼくの図のキンタマのふくろの部分は、実はどこかに穴が空いていて、何もたまらず にどかどかおっこちる、ということになるようです。あるいは、ふくろの間の部分を落ちてきた ものが、いつのまにかふくろの中に戻っていく回路があるわけですか。 いや、やっぱり理解できません。「片方の入り口」「双方の入り口」というのがどういう話なのか、 それをたとえば切断するとどうなるのか、さらにどっかに膜を貼ると、そこで循環が起きる、と いうのを、もう少し別の形でご説明いただけるとありがたいのですが。
>私は「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」という言葉の意味を、
>山形さんのあの文章ではじめて理解しました。
おそらく「浅田のまとめではそうなっている」というだけのことだと思います。
本来的な「ポストモダン」(というより近代主義批判)の立場からは、
そういう単純な社会進化論的理解枠組み自体が批判の対象となりますゆえ。
私はあのシーンで、逆に、脚本家が逃げたな、と思ってしまいました>マルコヴィッチの穴にマルコヴィッチ自身が入ると…ってところ
それまでは穴の主と「感覚を共有する」というルールできたのに……。という理由からです。
「絶対にたまらない」という点は撤回します。管の部分が湾曲すれば、液体が「たまる」のは当然ですから(自分の書いた図だけを見て思い込んでいました)。
私の主張は、クラインの壺の出入り口を膜でふさげば(壺の内部にある内容物にとって、壺への蓋の有無は関係がない)、かえって浅田氏の主張(クラインの壺は循環するシステムだ)の方が正当である、というものです。3次元のクラインの壺は、正式なそれと違って、管としての役目を果たしていない(片方の入り口からだけで、双方の入り口からは水を出し入れできない)、という点で、浅田氏への反論としては不適当(もちろん膜を仮定する必要があるから適当でもあるが、3次元クライン壺が反論として不適当なことを考えれば、その有効性はどっこいどっこい)である、と。
ひょっとして面に沿った(というか面上の)動きの話をしているのかな? 二次元のものが面にそって一周(というかな)して戻ってくると、裏返って るとゆー。それで、クラインのつぼは表面だけの話だから、たてぎりにしても 無意味だ、とかそういう話かしら?
マルコビッチの穴は昨日みてきましたが、クラインの壺という感じではな かったなぁ。
それは初耳です。でも私は前から「わかんないことは愛の壷へ」って主義者ですが…(笑 ところで、『マルコヴィッチの穴』って映画をご覧になりましたか。 マルコヴィッチの穴にマルコヴィッチ自身が入ると…ってところが肝です。 「クラインの壷」臭がするっぽいんですよ。監督はビースティとかのMTV撮ってた人で、 最近ソフィア・コッポラと付き合ってるそうです。
あの水は別に製造工程の中で注入されたものではありませんよ。いくらでも出し入れ できるものです。あれが実際のクラインのつぼではないのは、横の管がつっこんで いるところで面が破れてしまっているからでしょう? あと、実際のガラスには 厚みがあるのと。
ぼくは別に数学の専門家にではないし、ぼくの誤解を解くのが目的であるなら、もうちょっとわかりやすく 説明していただく必要があると思いますよ。
なぜクラインの壺は3次元では実現できないのか、あるいは、写真のような3次元のクラインの壺ではなにが実際のクラインの壺と違うのか、お聞かせねがえますか。
あと、「循環」について。クラインの壺のなかでおこった内容物の移動は、一方通行の移動ですが、口(くち)Aから口Bへ移動してたどり着いた場所が同じであれば(もちろん3次元では不可)循環したと表現してもよろしいのではないでしょうか。
もちろん私がここに書いているのは、浅田氏を喜ばせるためではありません。自分が楽しむためと、山形さんの誤解を解くために書いています。
写真の物体は実際のクラインの壺ではないからです。山形さんこそ実際のクラインの壺の条件は「入り口と出口が同一の管」というものということを理解されなかったようで残念です。写真のクラインの壺の中にある水が製造工程のなかで注入されたものあれば、意味がない、ということはおわかりいただけますか?
>たまるはずは絶対にないのです。
では、これなんかは起きるはずの ないことが起きていて、実際にはこの赤い水はここにあるように見えるだけで実在はしていないわけですか。 たぶん次元のちがう話(いろんな意味で)をなされてるんだと思います。ぼくは浅田の ロジックをとりあえずたどって、それがかれの言ってるようにはならないことを示して いるだけなのです。
あと、読まれてもいない本の中に、かかれてもいないことに同意されても、浅田彰は 喜ばないと思いますよ。また、クラインのつぼが何のたとえ話としてでてきたのか、ぼくは 自分の文中でもかなりはっきり説明したつもりだったのですが、ご理解いただけていない ようですね。残念です。
浅田氏の主張が「ポストモダンが実現するということは、クラインの壺が実現するのと同じくらい不思議なことなのだ(実現したら面白かろう)」というのであれば、私は同意するに吝かではありません。
中段の「わかりやすくするために、円錐とクラインの壺を、ずばっと二つ割りにしてみよう。……クラインのつぼってたて切りにすると、しなびたチンコみたいなのね。しかしそれはさておき」あたりから下は、削除してしまった方がよろしいのではないでしょうか。
山形さんは、3次元におけるクラインの壺を例に説明されているので、「金玉のふくろにたまる。それでおしまい」という表現を採られてしまっているのですが、実際のクラインの壺の条件は「入り口と出口が同一の管」というものですから、たまるはずは絶対にないのです。
浅田批判の要点は「出入り口がまるで錘の底面に見える作図をすることで、クラインの壺を内容物が循環するシステムに見立てたおまぬけ」に尽きるのではないでしょうか。
うーん。たしかにひいきの引き倒しですね。いや、別にひいきでもないし
まじめに書いた訳でもないけど。
ところで、Z-kanの山形さんの文章の扉のページを読んで驚いたのですが、
二畳庵主人って、そんなに昔から、漢文で痴話話を書き続けていたのですね。
僕と山形さんの年齢差を考えると、かれこれ10年以上 アレが続いていること
になるのだが…。
アレは、大学受験よりも、その後でシナ語を勉強した時に役に立った。
>こういう解釈は成立するでしょうか?
うーむ、通常はこういうのはひいきの引き倒しとかこじつけとか呼ばれるであろうし、この解釈を 危うくするであろう他の図も「構造と力」には散見されるのではありますが、しかし愛情はつたわる のではないでしょうか。ああそうか、ひょっとしてクラインの壺の本当のキモは、そういった単純な 正しい・まちがいの二項対立に基づく不毛な解釈合戦を超越してすべてを許しつつみこむ 無限の価値の源泉たる愛を伝えることだったのかもしれません。
しかし、ヤプールが異次元人さんだったとは不覚。家庭がきびしくてテレビをじっくり見られなかった 副作用がこんなところに出てくるとは……
クラインの壷がめぐられているようですが、話の本筋とは関係ない話。 私は「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」という言葉の意味を、 山形さんのあの文章ではじめて理解しました。
クラインの壷、本当に間違っていたのかいろいろ考えた末、こういうの書いてみました。
こういう解釈は成立するんでしょうか?
されてますね。Z-kanなど。harpers' bazzerはリンク切れ?
あと「その他雑文」も増えている?(これはちゃんと見ていないので自信なし)
『浅田彰の言説を追う』を運営されている(ナツ)さんの掲示板で、「浅田彰のクラインの壺をめぐって」の話題が出てます。
|ヤプール 投稿者:西麻布 投稿日:10月 6日(金)09時34分32秒
| ちなみに山形さんはヤプールの理解にも誤りがあります。ヤプールは4次元人
|でしたが、彼らがウルトラマンAに「負けつづけていた」のは戦略上のことであ
|って、実際にAに負けていたのは3次元存在である「超獣」です。ヤプールもシ
|リーズ中盤でAに殺されましたが、そのときヤプールは「巨大ヤプール」として
|3次元に実体化していました。
http://www62.tcup.com/6206/natusummer.html
西麻布さんがやまがたさんのヤプール理解の誤謬を指摘。リンクはぼくが補いました。
|第28話「さようなら夕子よ、月の妹よ」
|月に吼える満月超獣ルナチクス。木の間隠れの月光を浴びて狂ったように走る南夕子。
|意外!夕子に隠された恐るべき秘密が明かされる時、それは、あなたと夕子との別れの時なのだ…
http://www02.so-net.ne.jp/~vampz/ultraAnext.htm
北斗くん、ひとりぼっち。おお、南夕子専門掲示板!!
制度的な問題の活動などはまだたくさん残っていると思うので。 が、アフリカの女性器割礼みたいなことを文化多元主義はどう消化するのかな、とか、 そういうことには興味シンシンですね。
そうですね。それはまさに、開発さんの書き込みのタイトルにあるような、蛇の足のように、あるのにない、 ないのにある、という意味で、ラカン自身も述べているような、分数の分数線のようなものとしてのみ 定義しうるものだと思います。そこでのフェミニズムの困難というのは、まさにフェミニズムの根拠となる 性差そのものを自らの活動の中においてなかば否定しなくてはならないという、一種の差移的な 存在様態にあると思うのですが、そうしたいわば意味の宙づりという過酷な体験を、自らにおいて 引き受ける覚悟をすべてのフェミニストに要求するのは酷かもしれない、という気はしなくもありません。
ところでラカンに関してなんですが、セクシャリティそれ自体は、欠如態でしか表象されないのは、男性の場合も同じなんじゃないかと思ってます。φもそうじゃないですか。 常々、フェミの素朴なラカン批判も怪訝に思ってますし、名前忘れたのですが、門下生をクビになったレズフェミ活動家は、それわからなかったからじゃないかと思ってます。
いや、あの、男性器の話題になっていたもので、 なんとなーく「メンズルーム」なのかしらんと思ってしまったのです。 何しろ2ちゃんねるからスヌーク・インしたもので、 ちょっとこそこそしてて、んーでもって「ここって私アリですか?」と、 そういう意味で申しました。えーっと、玲奈さんのご指摘では5な感じですかね…(・・;)
開発チエさん、はじめまして。
勝手に広報部の勝手に部長を名乗っております玲奈ともうします。
ここがお役に立てたようでよかった。
>ところでここ、女性入っていいんでしょうか…;
というご質問(?)の意味/意図がちょっとわからなかったものですから、
反応にとまどっておりました。
開発さんの御用はお済みになったようですが、他にも同じような不安を抱いて
発言を躊躇している「女性」がいるかもしれないので、今後の参考のために、
以下のどれに相当するか教えていただけるとたいへんありがたいのですが。
1. 部室というのはむさくるしい男どもの巣窟だと相場が決まっているので、
2. 山形さんは女性差別主義者だという噂を聞いたのでここもおそらく…
3. 玲奈というのは女を装ってはいるが、山形さんの世を忍ぶ仮の姿の1つであろう。
しかし、自分は正真正銘女性であるのでしかるべき扱いをしてほしい。
4. 時候の挨拶にすぎず、特に意味などない。
5, ラカンによるとセクシュアリティは幻想であり、欠如態としてしか可能にならない
のが「女性」であって、ゆえに「女は存在しない」ことになっているが、そうすると
自分が女性であるという私の実感は素朴実在論として退けられるのかもしれないが、
そこを曖昧にして話題を避けること自体、女性性を抑圧せんとする近代ファロゴス
中心主義の策謀に荷担することになるのであえて…(以下略)
6. その他
(7. うるさいわねえ、ほっといてよ。)
あ、ご芳名は記憶しておりますが、ご尊顔まではちょっと。記憶しているかもしれませんが、 ぼくは顔と名前の対応をつけるのがとても苦手なもので。もうしわけありません。
ここにあったそこらじゅうのリンクをマークして、 やっと知人たちののネット活動の実態を把握できました。 どうもありがとうございました。
おかげさまで、積年の無念が多少はれました。
山形さん、ありがとうございます。
続きがもっと読みたいと願うのは、厚かましいってもんですよね……
> 『爆発した切符』が読めなかったのが残念。
では多少その無念をはらしてさしあげましょう。
http://cruel.org/books/wsbticket.html
プロジェクト杉田玄白に、永江良一さん翻訳のヴェブレン『所有権の起源』が登場しました。 http://www.genpaku.org/sugitalist01.html
>ペヨトルみたいな出版社が消えるってのも寂しい話ですね。
ホントに。当時(大学生の頃)、それまで読むことのできなかったバロウズの本がドカドカ出版されて、「なんなんだ、この出版社(及び訳者)は?」と驚いたもんです。
『ノヴァ急報』のあとがきに書かれている『爆発した切符』が読めなかったのが残念。
今日たまたま立ち寄ったのですが、今、渋谷のパルコブックセンターで
「さようならペヨトル工房フェア」やってます。
(どなたか書いてましたっけ?)
山形さんと柳下さんが翻訳したバロウズの本も数冊並んでおりました。
とりあえず、「おかま」をゲット!
それにしても、担当の木村重樹氏も含めて、20代前半の人たちだけであんな刺激のある
本を生み出したペヨトルみたいな出版社が消えるってのも寂しい話ですね。
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_rev.cgi/?aid=&nick=%BB%B3%B7%C1%B9%C0%C0%B8&revr=2
おつきあいなのかも(代表が柄谷氏なのだし)