2000/7/1-7/10の苦悩
今日は別のお仕事のために東久留米へ。西武池袋線に乗るのなんてすげーひさびさ。とはいえ、別に何も感慨はないんだが。先方の担当者とディスカッションというわけでもなく、単純なご相談モード。粛々と話は進んでいき、「ではよろしく」というわけで、お互いの作業を確認しておひらき。打合せの鑑のような打合せだったな。細かい内容は当然公開できないのだが、まあようは「お互い腹をくくることにしましょう」というスタンスを確認したってこと。まあ、あの程度の妥協ならいいんじゃないかな。
そうそう、積読リストを更新するんだった。なんかかなり増えてる感じがするなあ。というわけで更新(7/10)。
この手の本の正しい使い方こういうふうにやると、一見議論が盛り上がっているようにみえて、実際は何の中身もない話をする時間が節約できます。お客様も大満足です。ですので、決してこの手の本を読んでもお客さんに勧めてはいけません。あくまで、
- まあとりあえず読んでおく。んで出てきそうな単語をチェック。厳密な意味や定義は無視。対句は特にしっかりと覚えておく。
- 打ち合わせなどで、誰かが「それは『いんふぉみでぃありい』のコンセプトですね」なんていった時に、「え?それって・・・?」と真顔で聞く(決して「ああ、知ってますよ。『ネット・レディ」に載ってましたよね」とかいってはいけない)
- んで、先方が「けっ、しらねーのかよ」という顔をした瞬間に「でも今のコンセプトはどちらかというと、本質的には『とらすと・いんたあみでぃありい』ではないのですか?」と別の単語でもって切り返す
- 「あ・・・いや・・・ええと・・・」と先方がたじろいだ瞬間を見計らって、さらに「このびじねすもでるの本質は『あうとさいど・いん』なのですか?それとも『いんさいど・あうと』なのですか?」などと対句でもって畳み掛ける
- 「うーん・・・ええと、これは『あうとさいど・いん』と『いんさいど・あうと』でいうとぉ・・・」などと無理に答えようと先方がもがき苦しんでいる瞬間を見計らって、「あ、できれば日本語でおねがいします」ととどめを刺す
- また出てきたら同じことを繰り返す
マーク・ステフィック「電網新世紀―インターネットの新しい未来」は、これも原著は1996年にでたやつだから内容的には結構ふるい。ただ、この本は「メタファー」を利用して「電脳社会」を捉えてみようという試みなので、内容は意外と古びてなくて骨太な印象を受ける好著。この本で取り上げているメタファーは「電子図書館」、「電子メール」、「電子市場」、「電子社会」の4つ。なんでこれがメタファーなんだという疑問は僕に聞かれても困るので本を読んでくれ。んで中身はそれぞれのメタファーごとに関係のある論文を抄録したもの。でもどれもそこそこ粒ぞろいの論文が収録されてるのでどこから読んでもおっけーなかんじ(ただし「電子メール」の論文は非常に質が低いし、「電子メール」の概念整理も浅い。ここは読み飛ばしてもいいと思う)。
僕が特に気に入ったのは「グーテンベルグ神話」を検証した論文。「グーテンベルグ神話」ってのは「活版印刷の発明によって、文盲率は低下し、さらに安価に知識の普及が進み、それによって社会が劇的に変化するきっかけになったのだ」というもの。だが、これは明らかに間違っているということを「紙の値段」(!)と、実際の文盲率の低下のデータから検証している。東洋ではいざ知らず、西洋では、紙が一般庶民に手の届く価格になったのは18世紀に木材パルプ製紙が発明されてからだと論証する。つまり、グーテンベルクの時代にはまだまだ紙は高級品で、決して庶民に安価な本が普及したなんてことはないのだ、とまずは活版印刷技術だけができたところで、周辺の様々な発明がなければ社会的な影響は限定的だという点を論証する。
続いて、文盲率が実際に低下したのも18世紀になってからだというデータを示す。そして、文盲率の低下を推進したのは決して「聖書」ではなく、思想啓蒙書であったことを示してみせる。ついでにいえば、文盲率が低下した層は、いわゆる新興貴族や商人たちであって、いわれているような一般庶民に広まったのは義務教育が整備された19世紀以降であるとしている。つまり、活版印刷技術ができたことのみで、社会はそんなに簡単に変革されてたりはしないのだ。
これっていい指摘だと思う。まあこれを単純に「高い紙の値段」を「高価なPC」に、「文盲率」を「ITリテラシー(これってどういう意味なんだろうね?(笑))」に置換えてみたくなる衝動はとりあえず抑えておこう。PCを安くしただけじゃあだめだし、学校にパソコンを導入したってだめなんだ。そんなに結論を急ぐ必要はないんだと思う。今のインターネット単発だけでは決して世の中はすぐに変革されるわけじゃあない。技術的な蓄積、そして社会の意識変化が伴ってはじめて社会変革は起きるんだということを読み取って、しっかり腹に入れればいいと思う。そうすれば落ち着いて世の中を見渡せると思うし、今の「IT戦略会議」なんて代物がどんだけおばかかってことも見えてくる。こういったスパンで世の中を見渡せるようにしてくれる本ってやっぱりいい本だと思う。
ハーバート・サイモン「システムの科学 −第3版−」はようやっと読み始めたところ。これは息の長い付き合いになりそうなので、じっくりと読むことにしよー。
なんとなく側頭部が気になってるんだが、まあもう3日もたつので大丈夫であろう。気になったついでに頭部外傷についての参考情報。酔っ払って転んだ後は気をつけろ。こうなるとやばい。気をつけよう。
今日は日本橋にいって、彼女がBody suitsを買うのを眺める。調子に乗って彼女にWolfordのTOKYOを買わせる。うはは、Wolfordって好きなんす。んで、夜はちょいと近くの飲み屋へおつきあいに。
さて、明日は仕事だ。寝よ。あ、まだ頭は大丈夫です。でも数週間は油断できないらしいので尿失禁をしたら病院に行くことにします(夢精はおっけえなんだろうか?)。
昨日は台風の中よっぱらって新橋駅でこける。側頭部を強打。いてて。
今度社内で「にゅうえこのみい」についてしゃべらなかきゃいかん。でも、聞く方のレベルを考えると、あんまりこゆいはなしはできないだろうしなあ。情報投資と生産性のあたり(ソローのパラドックス)の入り口をちょろっとさわるくらいかなあ。とはいえ、まずは生産性の話からやんなきゃだろうし、PERとかのはなしも初歩の初歩から説明するしかないんだろうな。でもこの手の話は既に知っておいてほしいんだよなあ。へい、地道な啓蒙活動の一環ということでがんばるっす。
ヘンリー・ダーガー「非現実の王国で」が届く。会社で見るようなもんじゃないな。心を落ち着けてじっくりみます。精神状態のいいときに見た方がよさそうだし。積読リストもぼちぼち更新しなきゃな。あ、そうだ、いんたあねっと駄本募集をしたら以下のような本を教えていただきました。どうもです。
昨日も飲みにいっちまったんだよなあ・・・今週飲んでばっかりだなあ・・・今日も飲み会なんだよなあ・・・お金も肝臓ももたねえよなあ・・・まいっかー・・・
なーんかここっていろんな人が見てるのね、しらなかったわ。うちの会社で見てる人っている?いたら是非ご一報を(山形さん以外)。
2chのかたがた、痛いところをついてくるなあ・・・
昨日はウイスキーの試飲会なんぞに参加して昼間から酔っ払っていたが、今日は朝からお仕事をちゃんとした。えらいぞ。でも、また今日は飲みにいったのよ。しかも今日はこれで渋谷まで3往復もしたことになるの。ばかだね。くすくす。
わはは、こんどはこっちがほめられちまった(笑)。よせやい、てれるぜ。あ、あれは本人の書き込みです。
OJTなんて信じちゃいないし、大体そんなことをやったところで何を覚えるんだと思う。そりゃたしかに経理部とか法務部とかだったらOJTをやるしかしょうがないけど、これって自分の専門分野とか職能とかがかなり決まった形になってるからおっけーなのであって、決してすべての職種に当てはまるとは思えんのだ。職種と言う意味で言えばSEとか金融あたりもOJTが有効な分野かもしれない。
いや、何が言いたいかというと「コンサルタント」とかにOJTってのはまったくもって向かないということ。コンサルタントが現場で覚えるのは「応用」であって「理論」ではない。「人間関係」であって「組織論」ではない。んじゃ、「理論」や「組織論」ってなその手の基礎を持ってない人はどうなるのか?どうにもなりまへん。ただ、現実に流されていってしまうのがおちです。なかには頭のいい人もいて、多少は自分の中で我流の「理論」を組み上げる人がいるけど、この人の「理論」は経験にしか基づいていないので、応用範囲がものすごく狭い(そのかわりはまればものすごくはまる)、検証できない、理論の共有ができない、などという問題を持っているのだ。
こういった「OJT」という幻想にだまされて社員教育を「OJT」のみで長いことやってると、以下のような思考パターンの人間だらけになるので気をつけましょー。
<良くある会話>あ、いんたあねっと駄本ご紹介ありがとうございます。でもでもまだまだ募集中。新しいやつってなんかないすかね?ご紹介いただいたやつは1996年くらいのやつなので。上司の人:「ここはこうすればうまくいくんだよ」
あたくし:「なんでですか?」
上司の人:「前はこうやってうまくいったんだよ」
あたくし:「今回と前回の共通点ってなんですか?」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「とにかくいっぺんこれでやってみないか?」
あたくし:「やるのはぜんぜんいいんですけど、うまくいかなかったら次ってどうやるんですか?」
上司の人:「その時はまた考えるさ」
あたくし:「それを仮説レベルでもいいので今ちょっと考えませんか?」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「なんか俺のやり方に文句でもある?」
あたくし:「『やり方』ってなにを指してるんですか?このプロジェクトの『作業のやりかた』?それとも『あなたの方法論』のことですか?」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「とにかく議論してる時間はあんまりないんだよ。作業を進めよーぜ」
あたくし:「そのとおりだと思いますけど、もしこの作業が失敗したら、それこそ時間の無駄になりゃしませんか?」
上司の人:「大丈夫だよ、その時は俺がなんとかするから」
あたくし:「なんだ、じゃあ時間あるじゃないですか」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「いや、『俺が何とかする』ってのは万が一の時のことであってさあ・・・」
あたくし:「でも今までもこの手の話ってもめやすいんじゃなかったでしたっけ?今回はもめないって保証があるんですか?例えばお客さんと仲がいいとか・・・」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・ないんですか?」
上司の人:「んじゃ、どうすればいいっていうんだよ」
あたくし:「『教われ』っていわれてるのに僕に答えを要求されても・・・」
上司の人:「批判するんならなんか代替案を出せよ」
あたくし:「いや、別に批判してるわけじゃないんですが・・・んじゃ、まあ、例えばAとか、Bとか」
上司の人:「なんだかよくわかんないな」
あたくし:「でもこれって基本中の基本なんじゃないんですか?非常に教科書的にいってみたんですけど」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「おまえさ、学部どこだっけ?」
あたくし:「経済学部ですけど」
上司の人:「専攻は?」
あたくし:「マーケティングです。そのなかのマーケティング・サイエンスっていって、消費者行動モデルとかの分析を・・・」
上司の人:「だからおまえは理屈とか数字にこだわるんだな。でも教科書的なことやっててもコンサルはつとまんないんだぜ」
あたくし:「でもこれってべたな市場調査じゃないですか」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「わかった、じゃあおまえに任せるよ。好きなようにすればいいじゃん」
あたくし:「もめたらお客さんに謝ってもらえます?」
上司の人:「なんだよ、それはまた別の話じゃねーか」
あたくし:「んじゃ一緒にやるしかないじゃないですか」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」
上司の人:「おまえ結局何が言いたいの?」
あたくし:「いや、ただ単にこのやり方だとうまくいかない場合の保証がないから不安だってことです」
上司の人:「そんなのやってみなきゃわかんないじゃん」
あたくし:「でもさっき『うまくいく』って・・・」
上司の人:「・・・」
あたくし:「・・・」(最初に戻る、あとは時間の続く限り繰り返し)
うーむ、まだいんたあねっと駄本募集中。困ってるのお。
山形浩生の「おのれはAIBOか(「新教養主義宣言」p.042:以下「新教養主義宣言」からの引用はページ数のみの表記)」という記述は、「新教養主義宣言」を世に出した山形浩生のしたたかさ、そして「新教養主義宣言」の抱える矛盾とを示したものであるとしかいいようがない。そこに隠された意味があるとすれば、それはソニーが考えた「エンタテイメント」という切り口と、山形浩生が再構築を試みた「新教養」との暗合であると考えるのが自然であろう。
某所で書いたものを若干修正。おほほ、まじめすぎるかしら。もうちょっと「抑圧」的にかけると芸の幅が広がるんだろうけどなあ。(←と、このへんも山形さん風に)ロボットを生活の中に組み入れたい。そこに新たな市場を作りたい−−そんな思いから、ソニーが「エンタテイメントロボット」の開発を始めたのは、1994年のことだった。この文章の「ロボット」を「教養」に、「ソニー」を「山形浩生」に読み替えればいい。つまり、ソニーにとっての「AIBO」は、山形浩生にとっての「新教養主義宣言」というわけだ。
ただし、「生活の中にロボットを」と言っても、「人間の役に立つロボット」を開発するには、動作性や安全性など技術的にクリアすべき課題があまりにも多い。「だったら」と発想を転換できたのがソニーのしたたかさだった。
だったら、単に面白いだけで役に立たないロボット、つまり「エンタテイメントロボット」があってもいいはずだ。そこから新しい産業や文化が生まれるのではないか。家庭用ロボットを誕生させることができれば、技術は市場競争で高まる。それは将来的にソニーが持つべき、高度なロボット技術の基礎になるはずだ。サイゾー 2000.6月号「これがアイボの正体だ」より
山形浩生は「新教養主義宣言」で「教養」を次の3つのステップで広めていく方法論を唱えている。
・個々のパーツを説明する段階この方法論は確かに「新教養主義宣言」で実践された。ただし、それは当初に山形浩生が考えていた水準からみれば、かなり低い水準にすぎなかったが。
・それをまとめて組み上げる段階
・そしてそれをインストールする段階「新教養主義宣言」p.036
この山形浩生がとろうとした戦略と、実際の「新教養主義宣言」での山形浩生のスタンス、そしてソニーが当初提唱した「OPEN-R」コンセプトと、実際のAIBO開発で取ったスタンスとの奇妙なまでの一致には目をみはるものがある。
当初、ソニーはロボットの各パーツ、プログラムモジュールに関するプラットフォーム「OPEN-R」コンセプトを提唱していた。この「OPEN-R」規格が目指していたものは、ロボットをエンタテイメント・プラットフォームとして位置づけるものであり、この概念こそが、山形浩生が目指す「世代をまたがる統合の再構築(p.025)」であり、「社会の基盤となる教養(p.025)」でもあった。
しかし実際のところ、ソニーは一部のロボットマニア受けするものよりも、一般の「ペット」として受け入れられるAIBOを作った。そこには「OPEN-R」で提唱されたプラットフォームという概念、そして組み替え・プログラミング可能なスケーラビリティ=自由というコンセプトは消え失せ、ただの「頭の悪い」「単にプログラムされた動きを繰り返す」「やがては見飽きる」エンタテイメントのおもちゃであった。当然のことながら一部ユーザからは「ロボット」という語感とのギャップを不満とする声があがったこともうなずける。"なんちゃって成長"とも呼ばれる、結局はプログラミングされた予定調和の行動・性格にも不満が多い。 加えて、AIBOは決して最新技術の結晶ではなく、市販製品というコスト/性能比の妥協の産物であることも不満の一つの理由であろう(ただし、あの大きさの筐体にすべてを詰め込み、まがりなりにも自律型ロボットを作ったことは賞賛に値するが)。
「なぜ、もっと自由で高性能の『ロボット』ではないの?」
これがAIBOユーザの偽らざる声であろう。そこには「ロボット」と「AIBO」のギャップ、そして「OPEN-R」と「エンタテイメント」の葛藤がある。そして、この構図は「山形浩生」と「新教養主義宣言」が目指したもの、そして「新教養主義宣言」と「その読者」にも当てはまる。
当初、山形浩生は書き下ろしを書く予定であったことを想起すべきである。山形浩生にとっての真の意味での「新教養主義宣言」とは、「世代をまたがる統合の再構築」であり、「社会の基盤となる教養」であったはずである。そこで目指していたものはなんらかの「プラットフォーム」であり、それと同時にスケーラビリティをもった「自己増殖できる自律的ミーム」であることだっただろう。
「一冊の本になにもかも、すべてをつめこまなくてはならない」と言ったのはだれだっけ。「一冊の本で世界のすべてを変えなくてはいけない」と言ったのは、あれはだれだったろう。僕にはその気持ちが分かる。しかし結局、山形浩生は「新教養主義宣言」においてその両者を追い求めることを放棄した。そこに彼の「(ある程度)売れて/受けてなんぼ」という市場観を見て取ることもできるだろう。しかし、結局のところ山形浩生は「新教養主義宣言」にプラットフォーム/スケーラビリティを盛り込めなかったと言わざるを得ない。「新教養主義宣言」p.049
書き下ろしを、と言われていたんだけれど、挫折。(Yamagata Hiroo Official Homepageより)そして、「雑文集」になりかけた「新教養主義宣言」に何らかのエンタテイメント性を付加し「商品」としての価値を持たすべく山形浩生はプロローグにすべてを託すことになる(それは本意ではなかったにせよ)。 「すべてをつめこむ」と言う点ではプロローグに精力を割いたことで山形浩生は確かに成功したかもしれない。そう、一応は「自律的ロボット」であったAIBOのように。しかし、「プラットフォーム」は構築できたか?確かにヒントとなるべき概念はいくつか提示されている。「おもしろがり方(p.041)」、「こういう人たちの感じたときめきの片鱗…(中略)その共通の気持ち(p.042)」。そう、それはある程度の機能を持ち、そこそこ楽しめるAIBOのように。では「自己増殖するミーム」としてのスケーラビリティは?確かに機能が限られたプチ山形はこの本で大量生産されるかもしれない。そう、まるでプーチのように。しかし、これでは山形浩生の目指したものとして十分であるはずがない。もちろんここで書いたことは、あまりに壮大すぎて、こんな小さな本一冊に負わせるにはあまりに荷が重すぎる。そうかもしれない。世界を変えることはまだ途上であり、しかもそれは必ずしも万人に受け入れられる<はず and/or べき>でないことであることも。「希望のようなものと、その百倍くらいの絶望とあきらめ(p.050)」というスタンスは正直なものだろう。しかし当初のコンセプトから見れば、実際に出来上がった「新教養主義宣言」とはエンタテイメント性という水に薄められた商品としての「新教養主義もどき」に堕していないか。われわれは山形浩生の作品としてあまりに不十分な商品をみせられているだけではないか?そう、「ロボット」としてではなく、「エンタテイメント・ロボット」としてのAIBOのように。本来の「新教養」が持つべきプラットフォーム/スケーラビリティを与えられない、ただのエンタテイメントとしての<教養>という姿で。「新教養主義宣言」p.049
確かに「新教養主義宣言」に満足する読者もいるだろう。山形浩生も満足するであろう対象読者層の存在に望みを託す(慎重に低めの水準に限定してはいるが)。
うーん。まあ確かに全員は無理かもしれない。それは仕方ない。半分でもつらかろう。二割。一割。どうかな。しかし、「想定読者」を限定すればするほど、このエンタテイメント性はあらわになる。AIBOが3000台限定で発売されていなかったら、例えば10万台発売されていたら、AIBOのエンタテイメント性はより積極的に評価されるべきものになっていたかもしれない。また、100台限定だったら真の意味でロボットに近いものが生産可能だったかもしれない。「新教養主義宣言」はどうか?想定読者数として山形浩生は「今の10倍(p.044)」を目指した。そして、それはあまりに中途半端な数字だったのかもしれない。「新教養主義宣言」p.044
ただ、この手の批判は山形浩生にとってすでに織り込み済みのことであろう。その証拠に慎重にかつこっそりと彼は次の一文をプロローグに埋め込んだ。「おのれはAIBOか」。この独白から読者は山形浩生の葛藤を見て取らなければいけない。そしてそれは開発者である山形浩生と、マーケターである山形浩生との葛藤でもあるのだ。
わはは、これって「身近すぎるゆえの抑圧」ですか。あ、いっとくけどしゃれですんで。
今日はリゾート関連の会社へインタビューなんぞに。うーん、まったく顧客の嗜好が想像できない・・・。僕の周りにはその手の人がまったくと言っていいほどいないのだ。ううむ、困った。
なんか「Being Digital」の最新版みたいな本はないですかね?ものすごく楽観的にいんたあねっとが社会に与える影響を嬉々として書きなぐっているようなやつ。しかも毛唐の有名人が書いたやつ。たとえて言えば中谷巌「e-エコノミーの衝撃」みたいなやつ(笑)。仕事で必要なのよー(ってどんな仕事してるんだ)。
あー、6/30の記述に心を痛める人がいてはいけないので。「つまんねー」「ばかばっか」というのは僕がいる部の人間に対してのみの感想です。誤解なきよう。
散髪にいく。結構こんでてやだった。「混んでる店」ってとにかく嫌いなんだよな。さて、明日っから仕事だな。今日はゆっくり寝よ。
設定はぼちぼち進んでいるが、どういうふうにオープンするのが一番いいかなあ。
今日は銀座でちょいとお買い物。といってもこないだ買ったスーツを受け取りに行っただけだが。
おゆはんにタイ料理を食べて素直に寝る。左様で。