まだ本を見てないので山形さんが謝辞に何を書かれたか知らないのですが、 おそらく訳者間の連絡用メモとして YukiWiki を使ったことも触れられていると思いますので、 インストールした者としてぼくからもお礼を言わせていただきます。 ありがとうございました。
ちなみに、YukiWiki は perl があればすぐに動き、 セットアップも非常に簡単だったこともつけ加えておきます (実際にはちょっと改造して使っていたのですが、 ソースも読みやすかったし)。
>「だから免罪なり減刑なりしてやってくれ」という目的が見えなかったり、 >読者が「じゃあ免罪なり減刑なりしてやってもいいか」と思わないようでは、 >「擁護」とは呼べないような気がしますだ。 あれが出たのは1979年、書かれたのは1978年くらいでしょう。で、この時点では、 カンボジアにアメリカその他が軍を送り込んでポルポト政権をつぶすべきか、と いう話が焦点になっているわけです。チョムスキーたちの主張は、それをやるな、 という話で、つまりポルポト政権をつぶせという議論に対して延命させろという 話をしているのだと言えるでしょう。 ま、先は長いので、ゆっくり判断してくださいな。レビューの受け売りで即断を するようなことはしなくていいんだし。
>ポルポト派を擁護したことは歴史的な事実である。
>日本の信者は、教祖の本も読んでいないのか。
>教祖も狂っているが、信者も狂っているらしい。
チョムスキーがポルポトを擁護したといえるかどうかは
読み手によっても意見が分かれるところらしいが、
池田が本も読まずにamazon.comの書評だけで誤魔化しているのは間違いあるまい。
で、こんな恥ずかしいことになる。
http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0045.html#kohobu20030529005634
『暗号技術大全』を送っていただきました。ありがとうございます。 なかなか大部(800ページ強)なのですが、本から受けた印象は「意外とコンパクト」ですね。 思いがけず結城の名前があとがきに謝辞として上げられていていささか恐縮しました。 ◆『暗号技術大全』ブルース・シュナイアー著、山形浩生監訳 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797319119/ メモ http://www.hyuki.com/diary/dia0305.html#i29
「ポルポト擁護」という言葉を見たときの第1印象について:
印象で申し訳ないのですが、例えば
「アメリカの圧力によってポルポトは虐殺せざるを得なかった(ホントはしたくなかったのに)」
「虐殺を企画立案実行したのはフン・センで、ポルポトは傀儡に過ぎなかった」
「実は精神を病んでいて」「いやあれはスカラー波が」
なんてのを想像してしまいました。
一方、「被害者は数百万人ではなく数千人」とか、「アメリカは他所でもっと酷いことをしている」とかいったとしても、「だから免罪なり減刑なりしてやってくれ」という目的が見えなかったり、読者が「じゃあ免罪なり減刑なりしてやってもいいか」と思わないようでは、「擁護」とは呼べないような気がしますだ。
えー、200万人だったら車裂きだけど数千人なら(アメリカはもっと酷いことをしていることだし)終身刑で勘弁してやる、って思う人なんていないだろうということなんですが。というか千以上の虐殺って万でも億でも想像力がついてかないのですが。なんかまとまらないな。甘いのでしょうか。ああ、歴史に「史上最悪の虐殺者」として名を残すか、ヒトラーと並べられるか、アミンと一絡げかって違いがあるか。
どうしてそこんとこがコメントアウトしてあると思ってるのかね。確証がそろうまで公開を控えようと思ったからなのだ。各種のサイトで引用されている部分を「きちんと」読むと、ポルポト擁護には読めない。だからその時点では、チョムスキー擁護派に一理あるかもしれないと思っていたわけですな。ぼくはそのくらいのチェックはする。池田はしてませんな。そしてそのうえで、なお実物チェックが必要だと思ってコメントアウトしてあるのだ。(だから池田もたまにいいことを言う、というのも、確証がないと思っていることではあるわけなのです)。
さらにチョムスキーの政治経済的な主張は、反米反グローバリズムのよくあるサヨクプロパガンダでつまらん、というのはAmazon.comのレビューに書いた通り。ポルポト擁護はチョムスキーの政治経済的な主張のすべてどころか、メインですらないのです。池田によるチョムスキーの議論が眉唾だと思うのと、チョムスキー自身の発言をどう考えるか、というのは別物なのです。
あと、あららさんの言う、アメリカ批判をしたいだけ、というのはその通りでしょう。でも、その手段は結果として、ポルポトの虐殺を伝えるものはすべて難癖つけて過少評価させ、一方それを否定する情報はすべて額面どおりに受け入れる、というものです。結果として、ポルポトを擁護するものになっている、というのがぼくの言いたいことなのです。ただ、そう考えない立場、あくまで額面にこだわる立場もあるだろうとは思います。ぼくはそれは欺瞞的だと思うけれど、でもそう思ってしまう気持ちというのもわかります。ま、まだ先はあるので、気長に読み進んでくださいな。
「After the Cataclysm」の翻訳ページは、もし山形さんの解説がなければ、
チョムスキー達はアメリカを批判したいだけで、別にポルポトを擁護したいとは
思ってないんじゃないかと読めますけど。「厳密に」読み過ぎなんでしょうかね?
山形さんのチョムスキー翻訳ページでは、
「もしその殺されたという人々の数が、まあたとえば、100 分の 1 くらいの少さ
だったら――つまり2万5千人だ――こんな提案(引用者注・アメリカを中心とした
国際的軍事介入)はしなかっただろうと想像する」となっているのだが、
池田がリンクを張ったamazon.comの書評では、
On Cambodia, Chomsky and Herman produce some extraordinary apologetics
for the Khmer Rouge, offering a figure of only 25,000 killed and
claiming that the bloodbath has been exaggerated by a "factor of 100"
(p139).
と、まるでチョムスキー自身が「被害者の数が2万5千人だ」と言っているかの
ように無理矢理曲解されているのを発見。
そんなことなど知らず池田センセイはメーリングリストで、
>実際の犠牲者を「25000人ぐらい」と見積もって批判を浴び、
と書いてしまいました。
本も読まずに、Amazonの書評をソースにするからこんなことになるんだよ。
出てはずかしい…この池田某と。
http://www62.tcup.com/6216/skgpsg.html? 池田氏。「半可通はお前だ」と嘲笑されてます。 後記2参照。 http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Chomsky.html
ふと思ったのですが、この近辺のるいともな方々の中にはiなば大先生やら雀類やらといったウォッチャー体質の方が多そうなので「目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない」を地でいっているような気が。くだんの人も一人で「はやめのリリース、しょっちゅうリリース」を実施してたりして、なるほどあれはオープンソースだったのか(違
今回のリリースについて:えーと、「くだんの人は変な議論もする」の例として挙げた=「お気に入り」に一足飛びにはならないと思うのですがどうなんでしょーか(「常識を知らない」は判断する人の常識次第なので言っちゃってもいいのかな?)。つーか、もしかして「言語理論を賞賛する半可通」の根拠はその一文だけだったのでしょーか。なぞー。
で、そろそろ「きらいだリスト」更新かな。こちらのアップデートは滞ってますな(w
九段のページ更新です。ほとんど交換日記状態。
彼は「昔からチョムスキーはタコだと思っていた」というが、「公開お答え状」のコメントアウトされた記述をお忘れなのだろうか:<池田信夫氏の総合評価を ときによいことも述べます。テレビのデジタル地上波化批判 しかし一方で、変な議論もします。IPv6批判とか、あとチョムスキーのポルポト翼賛だのホロコースト否定論者翼賛だのといったネタとか。>
ブツは当日渡しが確実だすな。追って連絡するざます。
チョムスキー 『After the Cataclysm』翻訳進行中。
私は中学校の途中までしか行っていないので、なぜ皆さんが伽藍を知っていて、私は知らないのか分かりました。ありがとう。
高校の日本史でした。私も。 小学校の社会科ではなっかたように思うのですが。
アリス買えます。 http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3e97ada68bf4c0102686?bibid=02326444&aid=ex
>伽藍ということばのちょっと古くさい用法を知っていて、そっちを使ったというだけの話。
でもその後、「伽藍とバザール」っていうタイトルで本になると、やっぱりインパクトありました。追い討ちのオビもケレン味たっぷりに「Linuxは破壊的存在なり。」だし。
http://members.jcom.home.ne.jp/nohoho/tanaka.html
「半可通」なのは池田の方としか思えないのだが。
専門外の言語学にまで首突っ込まない方がいいのに。
学者のくせにAmazon.comの書評がネタなのね。(笑)
やっぱり山形さんがMay 27 01:16:21 の書き込みで予想した通り
池田は読んでませんでしたねえ。
私もまいなーあっぷでーとを発見したのでほーこくします。
くだんの人は「読んではいけない」という書評ページで「ノーム・チョムスキー 金儲けがすべてでいいのか」をとりあげています。そこには、
後記2:日本では、(略)今ごろになって、その言語理論を賞賛する半可通もいるようだ。というコメントがあるのですが、私がひるま会社からアクセスしたときには「半可通」のところから山形さんのHPトップ(英語版)にリンクが張ってありました。山形さんは著作の多くを公開しているのだから、その「言語理論を賞賛」した発言なりページなりに張ればいいのに、なんて中途半端なことをする人だろうと思いました。
最近、日本だけで流行するチョムスキーも彼のお気に入りらしいが、チョムスキーがポルポトのも消せばいいのに、中途半端にマメな人だなあとも思いました。ほーこくおわり。
大虐殺を否定して米国のジャーナリズムに抹殺されたという常識すら知らないらしい。
半年ぶりの爆笑のアップデートの後もこまめにパッチが入っていて、これは何かのめたふぁ〜なのかと思うくらいですが、いずれにしろこんな細かく指摘してもらえるなんて、山形さん、愛されてますね!
ついでながら、このあとがきには「E2Eの意義を本書で初めて知った」と書いてある。まあ正直なのはいいが、「E2Eがなぜいいのかという説明はほとんどなく」などと、自分の無知を他人の責任にしないでほしいものだ。アイゼンバーグの"Stupid Network"が出たのは6年前だし、村井純氏がIPv6を推進している理由は、5年前から「インターネットの自由と創造性」を守ることである。この意味で"The Future of Ideas"には、本質的に新しいことは書いてない。いわば、よくできた教科書なのだが、IPv6についての事実誤認はその数少ない欠陥である。私が「v6をサポートしているのは、世界の4000万のウェブサイトのうち1000あまりで、v4に置き換わることはありえない」と批判したら、レッシグは「私はtechieじゃないから、よくわからない」と答えていた。
とのことです。でも、もうそろそろパッチはなしにしたほうが良いと思いますが。
イナバさんならモテモテかと思ったのに。じゃあ買わせていただきまひょか。
このままでは6月1日アートスフィアの券がむだになってしまふ。(ダフ屋が出ればいいが。) 山形はんどうでっか。それとも手配してはりまっか。
グランバザールとの語呂合わせじゃなかったのか...
「大聖堂と慈善市」とかにすると、きらびやかな大聖堂よりもバザーで老女が売っている手作りのちっぽけな造花の方が尊いのです、的な心温まるお話っぽいですね。
ということが言いたかったのではなく、
元部長さんとキャラかぶりまくりの某・切れ者おじょーちゃんというけど、やはり「かぶりまくり」ではなかろう。共通要素あるけど。
僕が書いてる最中に投稿されたやまがたさんの書き込みで、
ほとんど僕の12:55:18の書き込みの意味がなくなってるな。
ト、読まずに投稿したわけではないことを主張(笑)。
「その語学力も、cathedralを「伽藍」と訳す程度のものである。」
伽藍の訳の問題は、少なくとも「語学力」とは関係ない問題だと思うが。
「マンフォードのあれ」とは何のことでしょうか。まったく意味不明です。 ひょっとしてエベネザー・ハワードとおまちがえでしょうか。
いい加減、酔っぱらってわけしり顔の支離滅裂な書き込みをするのはやめて いただければ幸いです。
でもって……
池田は、大して知りもしないくせに建築の設計思想がどうしたとか言わなければいい のになあ。伽藍というのは寺院建築一般を指すことばで、ちょっと前まではキリスト教会も、寺院と呼ばれていたのだ(いまでもイギリスのウェストミンスター寺院とかバチカンのサンピエトロ寺院とかノートルダム寺院というでしょう)。だから伽藍というのはそもそも仏教に限られたものではない。
ただし、最近では、仏教のほうだけを指すようなニュアンスは強かろう。でも、大聖堂と仏教伽藍とは設計思想がちがうか? それはどのレベルでの設計思想の話をするかでぜんぜんちがうでしょう。仏教とキリスト教というちがいはあるけれど、でも機能的には共通点も多いし、設計思想も似てくる。
実は仏像を拝むような如来蔵っぽい仏教の儀式形態(含む建築)ありかたと、メガロマニアで儀式好きなカソリシズムのありかた(含む建築)とは、どっちもヒンズー教に源流がある、という説もないわけじゃないのだ。後半はちょっと眉唾ではあるけれど。
そして両者の設計思想のちがう部分は、あの文章の趣旨に反するものか? esr自身が言っているように、中央集権的なデザインというのが重要な部分で、だからキリスト教だろうと仏教だろうと、文章としての意味を改変するものじゃない。
さて、ぼくがあれを訳すときにそこまで考えたかといえば、まさか。ぼくは伽藍ということばのちょっと古くさい用法を知っていて、そっちを使ったというだけの話。批判したいなら「いまの語感にはあわない」とか、ここでみなさんが言っているように「イメージがちょっとちがうので違和感があった」と言えばいいだけのことなのだ。そしたらぼくは「はいおっしゃる通り、古くさかったかもしれません」と言ってそれでおしまいなのです。
だいたい「いただけない」ならいただかなければいいのに。あれを訳して公開したとき、さっさとそれを「いただいて」コピーして、自分んとこのサーバに載せてたのは当の池田なのだ。文句があったのならそのときに指摘すればよかったのだ。
それは、四谷大塚だよ。公立小学校でやるわけはない。 ただし、マンフォードのあれは、当時としては名訳で、 (田園都市線)で通学なさったご貴殿には、それなりの 思い入れもあるでしょうが。 花園都市とか、いろいろ 代替訳語も候補にあがったようで・・・・ その当時には、それなりの意義があったということです。 花園都市線とか、ガーデン・シチイ線なんて、許せるか?
くだんのページがまた改訂されてまして(笑)、リンク先を読むと
「cathedralを「伽藍」と訳したのはいただけない。カトリック教会の大聖堂は、仏教の伽藍とはまったく異なる設計思想にもとづく建築物だから」
という理由が挙げられていたのですが、この池田氏の批判は妥当なんでしょうか?僕は建築は素人なんでよくわかりません。さっきの東大寺うんぬんの話は、高校の日本史で習ったお話だし。
ただ僕なんかは、「cathedral」と対比されている「bazaar」は別に建築様式じゃないし、「伽藍」も「cathedral」も、トップダウン型のものづくりの比喩として使われてるのだから別に伽藍でいいじゃん、とか思ってしまうのですが?
お見事です。ぼくなど及びもつかぬ洞察。なるほど(ってこれをあんまり真に受けちゃ いけないんだろうが、それにしてもすごい)。 するといまのダライ・ラマがチベット四派を統合しようと努力しているのは、ある 意味で外の大きな敵である中国/MSに対して、オープンソースとして大同団結して 対抗しようというような動きと考えられるわけですか。なるほど。 こういうのがあるから見せ物小屋はいいなあ。
チベット仏教の宗派のことと、「伽藍」っていう訳語が問題になってますけれど、微妙にリンクしてることに気がつきますね。ものすごく危険な言い方だし暴論だけれども、僧院に多数の学僧を抱えてピラミッド型の独占的な政教一致体制を作り上げていったゲールク派と、個人的な師弟関係による分散型組織でゾクチェンを伝承してきた在家仏教のニンマ派の関係っていうのは、"The Cathdral and the Bazaar " の関係とすごく似てるように見えるんですよね。条理空間 v.s. 平滑空間 とか、帝国 v.s. コモンズっていう型にはめて見てしまうのはなるべく避けたいんだけれど、その種の思考様式の違いのようなものが働いているような気がしてしまいます。
このへんの社会構造分析をテーマにしたチベットの歴史書に
"Civilized Shamans -Buddhism in Tibetan Society-" Geoffrey Samuel , 1993. Smithsonian Instituttion Press, Washington. がありますが、かなりエキサイティングです。
ゲールク派の修行僧は、30年以上、戒律論や論理学をやって博士号を取らないと高度な瞑想修行に入ることがゆるされないというところなんか、まさに「規制はイノベーションを……」の見本みたいなとこありますし。埋蔵教典っていうイノベーションは、「ありとあらゆるところに真理は偏在している」という観念に基づいて岩や水や夢の中から取り出されるんですが、伽藍の外から生まれてるわけで、伽藍の中にいる人たちからのFUDにいつも晒されてるわけですw。山口瑞鳳みたいな学会で幅効かせてる人がなんとかいうと、権威主義的な人々はそれを鵜呑みにしてしまうんですよね。
レッシグ教授も書かれているように、問題は、いつのどこの世にも、旧権力にしがみついて、新たな変革が起こることを憎んでいる人々がいることですね。逆に、イノベーションを起こそうという側も、旧権力に対するルサンチマン見たいなものに陥ってしまうと、オウムみたいなことになっちゃうので気をつけなければならないですが。
ぼくは社会科で習ったのは記憶にありませんが、 「がらんとしている」とか「がらんどうの」といった表現はよく使います。 「ガラン」というとこっちの印象のほうが強いので、どうも 「伽藍=中身からっぽ」と思ってしまうらしい (まあ考えてみりゃ大聖堂の中もからっぽなんだけど)。
あと全然関係ないけど群馬の県境付近に「ガラン沢」というのがあって、 遭難しやすい魔の谷として恐れられてるので、単体で「ガラン」というと、なんだか その語感もあいまってこの不気味な雰囲気をすこし連想させます。(まあこんなのはぼくだけでしょうが)
昨日から書きこみすぎててすみません。
伽藍って、小学校の社会科で、各種の伽藍配置って習いませんでしたか? 金堂と 講堂と塔が、縦一列にならんだり、十字状に並んだりして、それが四天王寺式だとか なんとか寺式だとか。 ぼくが都市計画/敷地計画畑なのでそんなのが記憶に残ってるだけなのかな。
やれやれ、キジも鳴かずばなんとやら。
>チョムスキーを読みもしないで絶賛している偏執狂
こういうことを書くと、当の池田が実は After the Catalycismの実物を読んでいるのかということを考えてしまうのですが。その「偏執狂」くんは、チョムスキーの問題の本を読んでいるのは確実でしょう。かなりきちんと。そして、チョムスキーの After the Catalycism は、厳密に読めば、直接的にはポルポトを擁護はしていない のです。ただ、ポルポトに不利な報道については「根拠がない(ともいえる)」「出所が偏向している(かもしれない)」「別の見方がある」「もう一段奥を探るとアメリカの影響がありそうだ」とひたすら書き、ポルポトに有利な報道については、さも信用できるかのような書き方をすることで、結果としてポルポトを擁護する機能を果たす文章になり果てているのです。ですから、厳密に言えば、正確にいえば、チョムスキーはポルポト擁護はしておらず、報道の偏向ぶりを指摘しているだけだ、ということになります。「わたしがポルポトを擁護したという証拠を示せ」というようなもんです。「わたしはポルポトが虐殺を行っていることははっきり認めている(ただし処刑されたのはせいぜい数千人か妥当という説があちこちから出ていることは書くけれど)」というわけっす。「ポルポトにとって有利なことを言っている人がいるということを紹介しただけで、わたし自身はそんなこと言ってない」と。「プライバシーを否定した証拠」と似てますね。
でも、その文章が全体として与える印象は、明らかにポルポト擁護になっているのです。ポルポトが批判されるときでも、必ずその後に「でもその原因はアメリカにある(かもしれない)」「アメリカのほうがもっと悪質(と言われる)」というのがくっついて、批判が腰砕けになります。ぼくはこの書き方故に、あの本は一層悪質だと思います。そして「偏執狂」くんは、読んでいないからではなく、深く読み過ぎているからこそ、それが見えにくいのです。
こういうことは、あの本を実際に見て、チョムスキー批判のために具体的にポルポト擁護を行っている部分を抽出しようとすればわかるはずなんですが。まさか池田信夫はそれをやってない、なんてことはありませんよねえ。
なんか于論茶を思い出すなあ。(あ、掲示板が復活してる。まあいいや、もうよまねえし)
皆さん博学なのね。私は伽藍ってのは山形さんのタイトルで初めて知った言葉なのですよ。(祇園精舎くらいは知ってる)。だから、きっと他の皆も意味も分からないのに伽藍伽藍と言っているに違いないと下衆の勘ぐりをしてたのに。ぐすん。
なんか批判の矛先が山形浩生本人から山形ファンへと微妙に変わってるの!(笑) まあ、べつにどうでもいいけど、「仲間内」とか「まわりに集まっているのも」とかそういう言い方が好きな人なのだな。
あれ、いまくだんのページを見てみたら、昨日と文章が変わってますよ。「骨董品のようなチョムスキーをもちだしてくるようでは山形もヤキがまわった云々」が削除されて、かわりに次の文が追加されてる。
類は友を呼ぶのかもしれないが、彼のまわりに集まっているのも、2ちゃんねるで私を匿名で誹謗し、身元がばれて大恥をかいたオタクや、チョムスキーを読みもしないで絶賛している偏執狂など、まるで見世物小屋である。
まあここが見世物小屋なのは否定しませんが、、、それにしても、この人は まともなこともいってるんだから (と個人的には思っております)、 毅然と礼儀正しくしてれば山形さんに勝てた (?) かもしれないのに、 なんでこういう「悪口合戦」にすすんでエントリーしちゃうんでしょうか。 こういう形で山形浩生にケンカ売るのはどう考えても分が悪いと思います。 (だって悪口は山形さんの土俵なんだし、慣れない芸風で勝負されても純粋につまらない)
>侮辱のしかたが嫌なのです。 が、あれは仕様なので。
山形さん、すみません。池田氏に対しての嫌みだったのです。
”fake”の”食わせ者”という訳はリーダース(2ed)にはあるのですが、それ以外(勿論、大袈裟です)では、あまりないようです。そして、伽藍はリーダースにものってないのです。
翻訳者が考えたものを揚げ足取りしておいて、変なところで訳つきで英語を使っているが許せませんでした。
僕は、ファンとしてここを覗かせていただいてます。だから、山形さんがリーダースを使っているのはFAQで知っていました。まさか、光栄にも、こんな形で墓穴を掘ってしまうとは夢にも思っていなかったのです。本当に申し訳ないです。ごめんなさい、山形さん。
池田氏のなんだかわけが分からない中傷に、どうにも抑えきれないものがあったのが本音です。山形さんのバロウズ本、”あのくだけた文体で”、読み終わったあと、「えっ、そうなの。バロウズ、きっちり読んでやろうじゃないか。」っておもいませんか。どうにもそういった価値(appreciation)を認めてないような、池田氏の言い分には辟易してしまうのです。
池田氏がバロウズ本の話をしていないのは理解しています。侮辱のしかたが嫌なのです。
こんなのもございます。 http://images-jp.amazon.com/images/P/4582761062.09.LZZZZZZZ.jpg まあ出口 裕弘もfakeだというならそれまでですが。
>名詞としてfakeを単純に訳せば、”ペテン師”や”詐欺師”、”にせ者”などに >ならないものでしょうかね。 食わせ者はほぼ同じ意味だから、まあいいんじゃないでしょうか。手元にある 研究社の「リーダース英和」には、食わせ者も出てます。 あと、生川勉じゃなくて、生田勉です。でも、この人の特にルイス・マンフォードの 翻訳ってヘタで嫌いなんだよな…… あと、伽藍については、訳してしばらくしたら急に話題になって、あちこち(含む 池田信夫)にコピーされまくったために、題名を今更変えるのも混乱のもとだとい う判断もあったことはお含みおきを。
>大聖堂っていうのは大勢の人が緻密な設計図を元に巨大な建築物を一気にたてる(たまに建築途中で倒壊する)というメタファーであって、そのへんのイメージが伽藍では全く伝わってこない
>大聖堂はよくテレビや写真で紹介されたりして、いかにも「精巧な建築物」ってイメージがつよいけど、伽藍はそれ自体ではあまりクローズアップされなそうだし。
伽藍のイメージとしては、修学旅行で定番のこれなんかどうですかね?
東大寺の大仏は鎮護国家思想のもと、天皇の勅命で遂行された国家的大事業です。
当時の日本は地震や凶作やら疫病やら政権争いやらで国情が不安定だったから、律令制という中央集権国家体制を維持するには、仏教という宗教的な権威が必要だったわけですな。
事業規模としては当時の国家予算の20パーセント以上が毎年費やされ、延べ200万人以上が作業に従事したというから大変なものだと思います。皮肉なことにこの事業が民衆の大きな負担となり、結果国は傾くわけですが。
「cathedral」も「伽藍」も「宗教的権威を背景とした壮麗な大建築」という意味では共通してるし、翻訳ものの小説なんかを読んでてもキリスト教系の建築を描写するのに「天を突く大伽藍」とか普通に出てくるし、適訳だと思うのですが。
こんなものまで出してましたか・・・「愛国」問答―これは「ぷちナショナリズム」なのか
原題は「QUAND LES CATHEDRALS ETAIENT BLANCHES」。 昭和32年初版、昭和43年で10刷出てます。岩波書店。 訳者は生川 勉大先生、樋口 清大先生。 七堂伽藍というと、壮麗な大建築というイメージで、当時は すんなり受けとめられていました。 ただ、副題が「臆病人国紀行」とあるとおり、1935年に、 コルビュジェがニュウヨークの近代美術館の招聘で、はじめて アメリカを訪れたときの3ヶ月滞在中のアメリカ印象記。 ついでながら、ニュウヨーク埠頭(空港じゃないよ)で、記者 どもに語った「ニュウヨークの摩天楼はあまりに小さすぎる」 という発言とともに、いま読んでもおもしろい。 みなさまのご誕生以前の話です。
ドビュッシーのLa Cathedrale Engloutieの定訳は「沈める寺」ですし、 「大聖堂」にこだわる必要はないと思います。まあコンテキスト抜きで ひとつの訳語にこだわるのは不毛でしょうね。
”fake(食わせ者)”と書きながら、”その語学力も、cathedralを「伽藍」と訳す程度のものである。”というのはなかなか言えることではないと思うのですが・・・。
名詞としてfakeを単純に訳せば、”ペテン師”や”詐欺師”、”にせ者”などにならないものでしょうかね。”食わせ者”と読ませたいなら、”fake”なんて使わなければ良いのに。
手元に辞書がある方は、”fake”を英和、”食わせ者”を和英で調べてみると苦笑いできると思います。
僕は読み方すらわからなかったのですが、伽藍の方が日本人には解かり易い可能性もありますよね。 dictionary.goo.ne.jpより がらん 伽藍 a Buddhist temple [monastery]; a cathedral 三省堂提供「EXCEED 和英辞典」より 〔梵 sagharama(僧伽藍摩)の略。僧園・衆園・精舎(しようじや)と訳す〕寺の建物。特に、大きな寺院。僧伽藍。 三省堂提供「大辞林 第二版」より
あと、書いてから気づきましたが、もうひとつの違和感の原因は 「伽藍」が和風に訳されているのに「バザール」がそのままだからかも (こっちはもともと英語じゃないですが)。
でも「伽藍と朝市」とかだったら、それはそれで…。
ぼくもイメージ違うと思います。 大聖堂はよくテレビや写真で紹介されたりして、いかにも「精巧な建築物」って イメージがつよいけど、 伽藍はそれ自体ではあまりクローズアップされなそうだし。 (まあ、ぼくが知らないだけかもしれませんが)
しかし大聖堂だろうが伽藍だろうが、タイトルだけでは結局何のことかよくわからないんで、人目をひきそうなほうにしたんじゃないですかね?
「だいせいどうとばざーる」よりも「がらんとばざーる」の方が
すわりがいいような気がします。
参考までに、esrインタビューより。
ESR: ああ、まずこっちから質問させてよ。ぼくの "Cathedral and the Bazaar"のCathedralって、なんて訳したの?特定の宗教色があることばだって聞いたんだけど。
――「伽藍 garan」ですけど。確かに仏教建築のほうのイメージがあるかもしれません。でも、ル・コルビュジェが「When the Cathedral was White」っていう有名な本を書いていて、それが「伽藍が白かったとき」と訳されてるもので、まあそんなに違和感もなかろうと思って。それと、あの文章は別にキリスト教の大聖堂であることが特に重要ではないと思うんですが。むしろ設計方針の問題ですよね。
ESR: うん、そうだね、なんか中央集権的なデザインがあって、それにすべてがしたがわされるという状態をいいたかったわけだから、別にキリスト教でなくてもかまわない。それに仏教のとくに日蓮系の一派は、世界の数ある宗教のなかで、武力による強制的な改宗を迫ったという点でキリスト教やイスラームと並ぶ悪名高い宗教だから、強権的という意味ではたぶん似たようなもんかな。
大聖堂よりも伽藍のほうが、メタファの意味がよく伝わります。好みでしょうか?
cathedralを伽藍と訳す、のは私も不思議なところ。yamagataさんによれば、コルビュジェの有名な本の邦題に影響されたとのことだけれども、他の人がそれをそのまま受け入れているのが不思議です。yomoyomoさんにもメールしたけど、ばっさり切り捨てられてしまったので、それ以来、他の人をつつくのはやめているのです。が、ちょっと蒸し返してみます。
cathedralの訳語はふつうに考えたら大聖堂であって、伽藍では私のような教養のない日本人には意味が分からないし、なんかインドの奥地にたっている仏教遺跡のようなものを想像してしまいます。(そもそも伽藍ってなんですか?)
なにより大聖堂っていうのは大勢の人が緻密な設計図を元に巨大な建築物を一気にたてる(たまに建築途中で倒壊する)というメタファーであって、そのへんのイメージが伽藍では全く伝わってこないとおもいます。
それは仕様です。
池田氏のページによれば半年ぶりに爆笑のバージョンアップをされたそうですが、そのバージョンアップされた爆笑がインストールできず困っています。どなたか助けてください。
「このページも有名になり、山形浩生なる人物の実態を知るうえで貴重な情報だという評価も高い…」のあたりで笑えばよいのでしょうか。
あー、だいぶ前にジュンク堂で増刷分の『コモンズ』訳者あとがきを確認したら、あまてらす氏の提案 http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0040.html#kohobu20021127075255 がほんまに採用されててワラタよ。 関連 http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/yamagata.html http://cruel.org/candybox/ikedareply.html あと池田氏のいう「ウソツキ小僧」云々ってのはこれ↓すかね? http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks0302.htm そうだとしたら、こういう誤解を与えるような引用は研究者としていかがなものかと。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20030524 らしいです。
チョムスキーしんぱとしてくくられるのはいやなのと、池田信夫のアレにリンクされていたのでついでに書いておくと、チョムスキーの政治・経済的な発言がタコだというのはまったくの事実です。さらにかれの "After the Cataclysm" がポルポト擁護のひどい本だというのもまったくの事実です。アクビ氏がチョムスキーの資料ページを作っていたときに、確認してみたいと思って注文したのが今月頭に届いたのですが、いやー、すごい。これがただのカンボジアとチモールに関する西側メディア報道の比較検証にすぎないと主張するのは犯罪的な言い逃れです。またかれがポルポトの虐殺を認めているからポルポト擁護ではないという言い方も、同じく悪質な歪曲です。かれのやっていることは、各種のソースから、ポルポトが殺したのは数千か数万程度にすぎないという話をもってきて、何百万人という数字は西側メディアがカンボジア介入の口実作りのためにでっちあげたものだという印象を作ろうとしたり、カンボジアで虐殺はあるけれど、それが中央の命令によるという証拠はないと書いたりすることです。数百万殺した、というのに対して数千しか殺していない、と主張するのは、実質的に虐殺はなかった、というに等しい議論です。その他、読んでいて唖然とするすさまじい本です。
だからぼくは古森義久の書いていたことはやっぱり正当だと思います。そしてチョムスキーの政治的立場に対する池田信夫の言いぐさも、まちがっちゃいないのです。(言語学については、かれもやばいのを悟って日和ってますな。あと池田が伝聞ではなく本当にチョムスキーの書いたものにあたっているかどうかは不明確ですが)。
が、それと書かれた書評を削除しろというのは話が別でございますわな。何も考えてませんねえ。まちがってないんなら、それを主張する手段はいくらもあるのに。
彼としては自分のところの公開MLで書いているのでコソコソ裏でやってるわけではない、と言うのではないかと思われる状況ではあります。
ほんっっっっっっっと、どうしようもないっすねえ。ご愁傷さまです。が、 ちっとも意外な気がしないのはなぜかしらん。 しかしbk1はそういうときにちゃんと説明を送ってくれるんですね。
ネット書店には書評を削除する権限があるのは当然ですが、 bk1の池田信夫の新刊「ネットワーク社会の神話と現実」の書評に、 「この本で池田がチョムスキーについて書いていることは何の根拠もない話で、 彼はインターネットでの批判に対しても、まともに反論できなかった」 という主旨の文を投稿していたのですが、掲載された直後にご丁寧にも 池田本人からbk1に抗議があって、削除されてしまいました。 bk1から私のところに来たメールによると、池田は「書籍の内容ではなく、 著者批判のための文章であり、内容も事実無根であるため公開は控えてほしい」 と主張しているそうです。 私は同じ内容をamazon.comの同書の書評欄にも投稿しておいたのですが、 そちらも削除されていたので、池田信夫はamazonにも抗議したようです。 自分でチョムスキーのことを本に書いてるくせに「書籍の内容ではない」ってのも 意味不明ですが、bk1にもAmazonにも著者からのメッセージ欄があるのだから、 どこがどう事実無根なのか書けばいいのに、裏から手を回し批判を削除させよう とするとは、そこまで逝ってる奴だとは思いませんでした。私が甘かった。 「自己情報コントロール権」を否定する池田ですが、「自分のイメージ」は コントロールしたいようです。やれやれ。
いや仕事とはぜんぜん関係のうございます。あと、本の紹介どうも。チベットで 検索するとお馬鹿なニューエージ本がわんさかひっかかって、どれがまともなの やらわけわかんなかったので、ありがたいことです。 取り急ぎお礼まで。
こんにちは。たまに覗かせてもらってます。
どこぞのblog経由でやまがたさんがゾクチェン入門読んでると聞いて、ふむふむと。いまお仕事チベット関係ですか?w
抜けるとこまで抜けると浄土真宗みたいになってくるみたいですねゾクチェンは(受け売り)。暗室つくってばりばりヨガとかいろんな実験を徹底してやって、最終的にそれらを捨てちゃうと真宗と近い底抜けなとこにくるみたいです。
ズイホー氏のゲルクマンセーは界隈では有名で、ちょっと頭固いなぁという感じもしますね。もっと言っちゃうとアフォがくしゃですか。宮崎さんのは読んでないですが推してしるべしな気もしますが機会があればよんでみます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393112016/qid=1053695766/sr=1-10/ref=sr_1_0_10/249-0079327-4352309
歴史はこの本が目配せきいてていい感じです。
ではでは
知りませんでした。ありがとうございます。 その後みてみると、宮崎哲弥は山口瑞鳳をもっぱら参照しているようで、山口瑞鳳 はゲルグ派中観マンセー的な立場が極端に強くてそれ以外のものは全否定するよう な傾向があるとされているみたいです。ニンマ派とかは、少数派だし、あとチベット の土着宗教っぽい泥臭さがあって、山口瑞鳳はそれをぜんぜん認めず、それを 受け売った宮崎哲弥もそういう論調になったということではないかと。 とはいえ、ぼくはそこらへんの派閥の具体的なちがいもよくわかっちゃいないんですが。
こんなページがありましたね。とうにご存知かもしれませんが・・・
いま、ダライ・ラマ「ゾクチェン入門」を読んでいるのだけれど……
宮崎哲弥はかつて中沢新一/オウム批判の文脈の中で中沢のやった(そしてオウム が我田引水した)チベット仏教は異端のニンマ派のゾクチェンであり、ニンマ派は 埋蔵経典に依拠して、インチキ経典を埋めては掘り出してみせる筋のよくない異端で、本家 ゲルグ派のダライ・ラマとは関係なく、そういう異端をまつりあげたのがオウムや 中沢は悪質で云々といった話を書いていたんだけれど(「正義の見方」参照)、この 本を見ると別にニンマ派は異端ではなく、チベット仏教主要四派の一つで、ダライ・ラマはニンマ派のゾクチェンもちゃんと修得(というべきか)していてこうして他人にも おおっぴらに伝えている。
ということは、宮崎哲弥の仏教理解(少なくともチベット仏教について)は実は不正確な もので、したがって教義に基づいたかれのオウム批判や中沢批判も、実はあまり信用 できないんじゃないだろうか。
という疑念が浮かんできているのでメモ。
マトリックスの各種サングラスも売ってるみたいですな。
マトリックスもね。(言うまでも無いでしょうが) 続編公開の前にもう一度、復習して見てみたのですが、 今見ると最初の方の会社のシーンとか、割と 空気感がショボくて、B級な感じが漂っていて面白いです。 監督も CUTのインタビューかなんかで「いや〜、当時は予算なくて。」 どーしても外せない四つ位のシーンの特殊効果だけは 頑張ったらしいですが。 アニマトリックスなんてのもありますね。 http://www.neowing.co.jp/movie/special/animatrix/ あとは、俳優本人は続編出演の契約を交わしたのに、 前作で生き残った重要な人が、続編には出てないらしく、 映画会社を訴えてる、とかなんとか言うゴシップもネットで見ました。 赤でも青でもないカプセルを選ぶ道ってのは本当にあんのかな。
黒木さんご推薦の「トリック」の台湾バッタもんDVDを買って見ましたが、佐伯日菜子 (だっけ)があまりに耐え難いのがつらいっす。仲間ゆきえのへたくそさはうまく話の 中で、阿部寛のわざとらしさとマッチしてていいんですが。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=3504
朝日新聞掲載の『黒人アスリートはなぜ強いのか?』の書評がウェブにもアップ。
http://opensource.org/pressreleases/certified-open-source.php
によれば、open-sourceは商標登録できなさそうだ、とありますです。日本では違うのですかしら。
日本の(非UNIX?)趣味プログラム文化では、無料配布だけど特に自由でないソフトウェアのことを「フリーソフト」と呼んできた流れがあって、未だにvectorとかのレポジトリではそーいう表記をしてる。というのはさておき誤解や混同が起こるのは、どちらにとっても嬉しくないことだとはおもいます。でfree-softwareとfree-wareという用語で区別しようという向きもあるようですが、これはうまく行っているのかな。
「オープンソース」についてはソースを開示すれば全てオープンだろう、とかいう屁理屈をこねるつもりはないのです。が、「これが本物のオープンソースだっ」というような話って何か変だと思うんですけどね。OSI印じゃなきゃ偽物だっ、っていうのはどうも。
まあ、共通のパッケージやバイナリにまとめて配布するときにライセンスの互換性がないと問題が生じるということはあるのかもしれないけど、ライセンスまでデファクトスタンダードに支配されるなんて、あまり嬉しくないな。
まあ、別にフリーソフトウェアという言葉を他の意味で使っても良いと思うんですが、 何について話をしているのか分からなくなるデメリットのほうが大きいんじゃないですか。 オープンソースに関しては、OSIが商標を取っているので、違う意味で使うと怒ると思う けど。 フリーソフトウェアのフリーはフリージャズのフリーと等価じゃないよなあ、とか思う 今日このごろ。後期コルトレーンというよりは、マイルズ的というか。何を言ってるんだか よく分かりませんが。
> そのためには無料だけど自由じゃないソフトや、ソースを公開するけど自由じゃない > (宣伝必須BSDとかの)ソフトを配布したいときもある。およそ自由だけれども軍隊や > 独裁国家に使われたくないときもある。 別に頒布しちゃいけないということは無いような。「無料だけどいわゆるフリーじゃ ありません」とか「ソースは公開するがかくかくしかじか」という但し書きをつけて 公開すればいいのであって、なんでわざわざ「これはオープンソース」と主張しなければ ならないのですか? そういう話じゃない? あと、ソフトウェアライセンスで自分の思想(平和主義とか)を開陳するのは 実は、RMSですらやっていないことです(フリーについてうだうだ書いているのは ライセンス本文ではなく前文で、強制力は無い)。法と道徳の分離という観点から 見ても、個人的には少々ナイーヴな発想だと思います。でも、そういったライセンスを 適用すること自体は、全く著作権者の自由です。
GNU一般公衆外延的意味表現利用承諾契約書より:
私たちが「フリーソフトウエア」という文字列表現を使うとき、 それはフリーソフトウエアという内包的意味概念を外延的に 表現しているのであって、価格を意味しているわけではありません。...ということですから、我々にはただGNUが適切と認めた状況において 「フリーソフトウエア」という文字列表現を使用するライセンスのみが 与えられているのです。このライセンスは、 「フリーソフトウエア」という文字列表現、あるいは それに関連づけられる音声を発声、複写、記録、意匠への使用、タイプ、 クリップボードへのコピー等をすることによって、自動的に 同意したものとみなされます。私たちの「フリーソフトウエア」という文字列表現は、あなたが フリーソフトウエアについて語りたいときに、それがただフリーソフトウエアという概念のみを外延しており、それ以外の何物をも外延していないことを保証するものです。...
ってもくだらないことなんですが、「これは厳密にはオープンソースではない」とか「これは本当の意味でのフリーソフトウェアではない」とかいう言い回しを聞くと、いつも嫌な感じがします。
フリーソフトウェアやオープンソースという言葉はFSFやOSIの独占物ではないでしょう。そりゃ日経産業新聞みたいにLinuxを「無償基本ソフト」などと説明するのは明らかな誤用ですけれど、逆にフリーやオープンという言葉には多くの意味があります。
私みたいな非研究職かつ低生産量のプログラマは自分の生産物からできるだけ多くのお金や名声を確実に得なくてはいけません。そのためには無料だけど自由じゃないソフトや、ソースを公開するけど自由じゃない(宣伝必須BSDとかの)ソフトを配布したいときもある。およそ自由だけれども軍隊や独裁国家に使われたくないときもある。
そういうものをフリーソフトとかオープンソースと呼ぶと文句がつくというのは、どうもやりにくいなあと思います。日本には「自由」って言葉があるんだから。ところで自由なソフトウェアを書いてお金を貰えている人ってどれくらいいるのでしょうね。
というような愚痴は、山形さんには全く関係のない話かな、とおもいつつ。