
最近、WiredNewsが面白いのでメモ。というか、バイオ関連が急に増えた気がする。
なんだか、ネットとかコンピュータそのものはもう煮詰まってきてるというか、チップのスピードが向上するとかメモリがでかくなるとかネットが太くなるとか、新しいデバイスが出てくるとかはあっても、先行きがある程度だけではあるけど「予想のつく世界」になってしまって、「ワイヤード的技術ネタ」の中心が変わってきたんだろうなという感じがするけど、どうなんであろう。
まず、
とのこと。どちらかというと、新薬開発という点では、こちらの方が「実用的」(?)
で、あのメディアラボも参入(笑)。
なんだか、メディアラボってのは、面白いけれども信用できない未来技術を空想するのが好きなだけのところで、それにもかかわらず有名大学の研究所ってことで、なにか技術的(あるいは予算的)なしっかりしたバックボーンがあるのかと錯覚してしまいそうなので、ちょっとまずいのだが、わかって楽しむなら良し。まあ、僕は山っ気のある賢いインチキは好きなので、もちろん連中も嫌いじゃない。アサダの壷
最近、山形浩生が、 「浅田彰のクラインの壺をめぐって」という、文章を書いていた。うん。面白かった。僕は、それに対して、 浅田の壷は、「知の欺瞞」というより、「『知の過失』の否認」であって、知の欺瞞の文脈で批評するのは、あまりしっくりこないというようなことを書いた。
しかーし、誤りだとすると、浅田彰ともあろう偉い人が訂正していないのは不自然なのだ。だから、 「そうするだけの理由があったに違いない」という観点から、浅田のクラインの壷の好意的な解釈をしてみようとおもう。僕はいぢわるじゃないのだから。今日のテーマは「浅田は間違っていなかった」だ! (ええと、この「浅田のクラインの壷」解釈は単なる冗談です。断る必要はないと思っていたのですが、本気に僕がこう信じてると思われるとアレなので。これを書いた後、「構造と力」を再読したのですが、少なくとも、この部分に関しては浅田彰が間違っていると考えています)
あ、ところで、僕は、「構造と力」という本に何が書かれていたかなんて忘れてしまった。だから、この文章全体が、おもいっきりはずしている可能性も否定できない。まあ、それは置いとく。どうせ、この文章はただのお遊びなのだから。まず、「クラインの壷」をアサダが理解しているという前提で話を進めよう。「クラインの壷」とくれば、内側の平面と外側の平面が同一平面になっている図形だよね。だから、アサダがクラインの壷を理解した上で「クラインの壷」を比喩として使っているのなら、そういう意味で使っているに決まっている! アサダはプレモダンを「円錐」でモダンを「クラインの壷」で表している。「クラインの壷」は「内側と外側が同一平面になっている図形」の意味でしかないのだから、それに対比されている「円錐」は「内側と外側が同一平面になっていない図形」の意味でしかない。あの文脈でプレモダンでは、別の平面にあって、モダンでは同一平面であると解釈できるのは、「商品」と「お金」しかない。
ということは、つまり、「アサダの円錐」では、「商品」は円錐の底面にのっかっているのではなくて、底面の下側にへばりついているのだと解釈しなくてはならない。「円錐」では同一の平面になかった「通貨」と「商品」が、「クラインの壷」になって、同一平面に置かれるようになったと解釈するべきだ。つまり、あの図は「内側にある通貨」と「外側にある商品」が現代になって同列に並べて扱われるようになったと解釈するべきなのだ。
え?アサダの「クラインの壷」では、商品が壷の表面上に書かれていないって?きっと、それは、表面上に「商品」を書き込むと図が見にくくなるからそう書かなかっただけなのだ。「商品」は、図上でどのように見えようと、クラインの壷の口のところの近くの外側の表面にへばりついているのだ。
しかし、だとすると、わかりにくい図だな。僕がもっと分かりやすい比喩を工作してみよう。題して、「アサダの紙」だ。
まず、紙を二枚用意してほしい。一枚目には、「もだん」とエンピツで書く。もう一枚には、「ぷれもだん」と書く。それから、両方にオカネの絵を描こう。10円玉でも一万円札でもかまわない。それから、「ぷれもだん」の紙をひっくり返して、「もだん」はそのまま。あとは、好きな商品の絵を描くだけだ。りんごでも、ダイヤモンドでもかまわない。完成。さて、「ぷれもだん」では、商品とオカネは裏表逆に、「もだん」では、両方とも同じ側に描かれているね。きっと、アサダの言いたかったのはこういう事に違いない。どうしてアサダは、このより分かりやすいメタファを使わなかったのだろう?
…きっと、クラインの方がかっこよさそうだからじゃない?
人物鑑定
これを書いた後で、「ブラッドベリって、そんなのだっけ?」と みやのさんに 聞かれたので、僕の解釈が特殊なのかと思ってWebでブラッドベリの書評を漁ってみました。そうしたら、 こういうのがみつかりました。僕がここで書いてるのよりずっと分かりやすくて悔しいくらいです。 こちらを読んだほうが僕の言いたかったことは分かりやすいと思います。
掃除をしていたら、ブラッドベリが何冊か出てきた。少し読んだ。この人の作品は、僕は、昔は大好きだったけど、この感覚が嫌いになって、自分の田舎を出てきたことを思い出した。いま、パラパラと見て、単純にこの人の文章を嫌いだといえる自信はない。この作品は、最近、僕がずっと考えている、諦めとかイナカというものに対する態度を見分けるリトマス試験紙のようなものだと思い付いた。山形VS宮崎論争を読んで以来、内容自体への興味はなくなってしまったものの、気になって仕方がないネタなのだ。
| Subset � | ブラッドベリの作品を読んで何も感じない人 | あなたは、多分人間ではないのでしょう。 |
| Subset � | ブラッドベリの作品が好きで、単純にあの世界が良いなぁと思う人 | あなたは、良い人かもしれませんが、私はあなたとお話したいとは思いません。 どっかの田舎に引っ込んでいやがれ。 おそらく、すべてにおいて、僕と意見が合うことはないでしょう。 |
| Subset � | ブラッドベリの作品が単純に嫌いな人 | あなたは、現在の社会に適応できないかもしれません。しかし、あなたと話すときっと僕は楽しいでしょう。 |
| Subset � | ブラッドベリの作品が好きで、同時に嫌いで、嫌いな自分が、何かを裏切っているように感じて罪の意識を持ち、同時に好きな自分が恥ずかしくてたまらず、かつてこの作品が好きだと友人達に話していた自分の恥ずかしさを思うと、思わず、左手人差し指が「核のボタン」をまさぐってしまう危険な人 | あなたは、僕の仲間です。ようこそ このページへ! |
どうでしょうか?「たんぽぽ」あたりが、この分類にフィットしそうな気がするな。
いや、ああいう世界を嫌いなのは、これから何かを使用とする人にとって正当なことだ。でも、それなりに機能してきた、それなりに居心地の良かった世界をマジメに否定するのは、かなり難しいのだ。そういう事が最近になってやっと分かってきた。